「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

四、白村江戦前夜から壬申の乱まで

 ■ 壬申の乱の最大の謎 

※ 扶桑略記第五 天智天皇九年

十二月三日。天皇崩。同十二月五日。大友皇太子。即為帝位。生年廿五。一云。天皇駕馬。
山階郷。更無還御。永交山林。不崩所。只以履沓落處山陵
以往諸皇不因果。 恒事煞害

壬申の乱の最大の謎は、天智天皇が病死したのではなく、大海人皇子の反乱軍に
敗北し、織幡神社の岬から玄界灘に入水自殺したらしいということである。
大友皇子の自死から間もなくのことと考えられる。
万葉集の次の歌もそれを証明しているようだ。

 織幡神社境内の武内宿祢の沓塚

「写真」

<万葉集の証言>

一書に曰はく、近江天皇、聖躰不豫御病急かなる時、
大后の奉獻る御歌一首

(一四八)

靑旗の木旗の上をかよふとは 目には見れども直に逢はぬかも

山科の青旗のような木幡(  織幡神社 )の上を御霊は通っておられると目には見えるけれど、もはや直接には天皇にお逢いできない
ことである。(直に逢ふとは、相觸れる肉體のある人間として直接に相見る事である。 澤瀉久孝)

大后=倭姫王。天智七年皇后となる。天智の異母兄、古人大兄皇子の娘。生没年未詳。即位したという説がある。大海人皇子が、
 皇太子辞退の時、天智天皇に対してこの皇后に天下のことをまかせるよう申し出たと書紀にあるのを有力な根拠とする。

大后の御歌一首

(一五三)

鯨魚取り 淡海の海を 沖放けて 漕ぎ來る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 
いたくな撥ねそ 若草の 夫の 思ふ鳥立つ

(鯨魚取り)淡海の海の遠く沖辺を漕いで来る船よ。沖の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。
(若草の)入水した我が夫のように思われる鳥が、驚いて飛び立つかも知れないから。 (日本古典文学大系の解釈を一部改作)