「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 白村江の戦いと壬申の乱(令和元年7月28日、九州古代史の会夏期講演会 より)
尚、令和元年12月1日(日)講演の改定版のページは、
こちら から
糸田町の 泌泉(たぎり) の糸田金村権現宮は、 天智天皇七年に右大臣金連公によって造営されたと書かれている。
(拓本の冒頭の3行目までの部分)
舊記曰糸田庄金村權現宮者
天智天皇七年秋八月右大臣
金連公所被令造營也初公扈
【口語訳】
旧記(不詳)に云うことには、糸田庄の金村権現宮は天智天皇七年秋八月に右大臣金連公が造営させられたものである。
初め、金連公は天皇につき従い、筑紫の要害を巡視された時この地に到り、権現が夢に現れ告知をこうむり、鉾を用いて
地を探り神泉を得、灌漑に便利であった。
よってその後友足(有職か)に仕え権現を池のほとりに勧請し、村人に永く権現の恩恵を享けさせた。
社伝に云うには、金村権現は大和国葛城下郡の式社で、大臣の氏神である。
今年七月、激震がしきりに起こり、社殿に到り、神体を損傷し、水口を塞ぎ、神泉を埋めた。
こういうわけで、いずれの田も亀裂が入り、稲が悉く枯れ、人民は恐れおののいた。そこでまず大神楽を奏し、その上幼児に
家々のために神慮を伺わせた所、神が幼児に憑いて告げて言うには、
「ここより北方二町に霊石の目印有り、その傍らに鉾有り、拾い来たりて神体と崇むべし。」と。そこで鉾を探させると
果たして神のお告げどおりであった。
それで神の教えに従って鉾を奉斎した。以来、神慮もたちまちに和み神泉も復旧した。すべての人が感動し、喜びのあまり
特に高瀬に命じてこの始末を台板に彫り付けさせた。この思いを終えるのに他は無い。永く石を用いて神体をお迎えした理由を
知らせようとしただけだ。
承安四甲午(一一七四年)七月二十五日
大願主大檀越
大神朝臣緒方右京進惟世敬白
金連公が、『日本書記』の天智十年の記事に出てくる。その金連が、右大臣になったと書かれている。その記事の後に漏刻を
造ったと続く。天智十年に中臣金連公が漏刻を造った所が、糸田町の泌泉(糸田金村権現宮は右大臣金連公が造営した)である。
天智天皇は、豊前にいた。泌泉は、漏刻の跡と思う。大伴金村も糸田にいたという事がわかる。(大伴金村を祀る 金村神社 が
ある)
『日本書紀』では漏刻の記事が、斉明天皇六年(660年)に出てくる。皇太子(中大兄皇子、後の天智天皇)が漏刻と高い須弥山を
造ったとある。これとほとんど同じ記事が、『日本書紀』の天智天皇十年に出てくる。
(斉明六年、六六〇)
夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、
設仁王般若之會。又、皇太子初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣闕名獻夷五十餘。又、於石上池邊
作須彌山、高如廟塔。
(天智十年)
夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓、始用漏剋。此漏剋者、天皇爲皇太子時、始親所
製造也、云々。
台板の「今年七月、激震がしきりに起こり、社殿に到り、神体を損傷し、水口を塞ぎ、神泉を埋めた。」とあるこの記事は、
泌泉の池の中に新羅慶州にある瞻星台(これは 須弥山という説 もある)のような建造物が建っていたのではないか?。
斉明天皇六年の記事、天智天皇十年の記事、糸田町の記録が天智天皇七年とあり、漏刻は本当はいつ造られたのか?
ここに斉明天皇と天智称制という『日本書紀』の大きな謎を解き明かすヒントが、隠されていた。
※ 一年ズレの記事
(斉明六年、六六〇)
「方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、
其正發遣之時見于七年(六六一年)。
『日本書紀』のこの記事は、倭国本朝の出来事だろうと思われる。王子豐璋を送り返したこの記事は、正しくは、
七年だと『日本書紀』自らが注に書いている。本当は斉明七年に漏刻が造られたのではないか?
つまり、一年ズレがあります。
※ 七年ズレの原因の記事
(斉明元年)
皇祖母尊即天皇位。(斉明)七年七月丁巳崩、皇太子素服稱制。
『日本書紀』のこの記事に、七年ズレの原因があった。
※最大の七年ズレの例
(天智)
三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。
(この条は全体として、または部分的に天智天皇十年条と重出しているらしい。〈日本古典文学大系頭注〉)
『日本書紀』の天智天皇三年に官位の大改訂を行う。これが天智天皇十年に出てくる。ここに最大七年ズレの例がここにある。
※ 1年ズレの原因
『日本書紀』の持統紀に「元嘉曆」と「儀鳳曆」を用いたとある。これは、『日本書紀』が書いた嘘である。
(元嘉暦)
中国暦の一つで、かつて中国や百済、日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法。中国・南北朝時代の宋の天文学者
何承天が編纂した暦法である。
中国では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、元嘉二二年(445年)から天監八年(509年)までの六十五年間用いられた。
⇒ 元嘉暦は、倭の五王から筑紫側 で用いられた暦
(儀鳳暦)
中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳風が編纂した太陰太陽暦の暦法である。唐でのもともとの名称は麟徳暦で
あるが、日本においては儀鳳暦と呼ばれた。
唐の麟徳暦は、麟徳二年(665年)から開元十六年(728年)までの七十三年間用いられた。
⇒ 儀鳳暦(麟徳暦)は、天智天皇から豊国側 で用いられた暦
「元嘉暦」が、南朝の宋の時代から使われてきた。一年間の日数が微妙に違う。2、3日ズレるので、数百年経過してくると、
干支自体が全く1年ズレてしまう。
『日本書紀』は、『古事記』の序文にある通りに書家のもたらす帝紀を纏めているわけだから、それぞれの王家に伝わった暦が
すでに七世紀の頃には完全に1年ズレていた。
それらの歴史書をもとに『日本書紀』は編纂されたから斉明七年の記事が、六年の記事になったりという事が出てくるのであろう
と思われる。
※ 七年ズレのカラクリ
日本書紀の紀年
豊前国旧記の紀年
斉明元年
斉明六年 豐璋等發遣
斉明六年 須彌山・漏刻建造
↓
斉明七年 上記の実年
天智元年 皇太子称制
天智三年 官位改訂記事
※天智九年 天皇崩御(扶桑略記)
天智十年 官位改訂記事重出
天智十年 漏刻建造記事重出(天智七年の
天智十年 誤りか?)
天智十年 十二月天智崩御
天智元年 称制
天智七年(六六一)
天智七年 須彌山・漏刻建造
天智八年
天智十年 同上記事
天智十七年?
*.豊前国旧記の正体は不明であるが、ここに書かれた天智七年が、『日本書紀』の斉明六年記事は、実際には七年記事だと
すると斉明天皇七年と天智天皇七年は、同じ年ではないだろうか?
斉明天皇の七年間というのは、天智天皇の七年間とまるっきりダブっているのではないか? 筑紫側と豊国側で、斉明
天皇元年と天智天皇元年は同じ年に始まっている。本来、豊国の旧記には、天智十七年があったのではないだろうか?
『日本書紀』では、斉明天皇七年七月に斉明天皇は崩御している。翌年、天智が称制を始めて、天智元年となっている。
『日本書紀』天智三年の官位改訂の記事は、『豊前国旧記』天智十年の記事であった。それを更に『日本書紀』天智十年にも
書かれたのではないだろうか?
これが数えで、七年ズレとなる。こうなれば、斉明天皇は、天智天皇の母親では無くなる。
(称制とは)
もともと中国の漢文の言葉である。先王が崩御して、新王が幼少である場合、太后(母后)が実権を握って政治を
代行することをいう(垂簾の政)。古く春秋時代からみられる。
日本と異なり、中国の場合は称制する者(母后)と別に正統の君主(幼君)が同時に存在しなければならない。
天智天皇の称制は、意味が良くわからないが、
・ 斉明元年(六五五年)称制の場合
⇒ 漢皇子を廃して豊君に即位?
・ 天智元年(六六一年)称制の場合
⇒ 倭国東朝が倭国本朝を併合!
於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。
洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、
百済を救う役の時に大伴部博麻は、唐軍の捕虜になった。筑紫君薩夜麻もここの所で捕虜となっている。筑紫君
薩夜麻は、白村江の戦いで捕虜になった訳ではない。百済が滅んだ年の六六〇年に捕虜になった。
倭国本朝側に天皇がいなくなった。それで、天智が唯一一人の天皇だと宣言したのかもしれない。
(新唐書・百済)
永徽六年,新羅訴百濟、高麗、靺鞨取北境三十城。顯慶五年(660年),乃詔左衛大將軍
蘇定方爲神丘道行軍大總管,率左衛將軍劉伯英、右武衛將軍馮士貴、左驍衛將軍龐孝泰發新羅兵
討之,自城山濟海。百濟守熊津口,定方縱擊,虜大敗。王師乘潮帆以進,趨真都城一舍止。
虜悉衆拒,復破之,斬首萬餘級,拔其城。義慈挾太子隆走北鄙,定方圍之。次子泰自立爲王,
率衆固守,義慈孫文思曰:「王、太子固在,叔乃自王,若唐兵解去,如我父子何。」與左右
縋而出,民皆從之,泰不能止。定方令士超堞立幟,泰開門降,定方執義慈、隆及小王孝演、
酋長五十八人送京師,平其國五部、三十七郡、二百城,戶七十六萬。乃析置熊津、馬韓、東明、
金漣、德安五都督府,擢酋渠長治之。命郎將劉仁願守百濟城,左衛郎將王文度爲熊津都督。
九月,定方以所俘見,詔釋不誅。義慈病死,贈衛尉卿,許舊臣赴臨,詔葬孫皓、陳叔寶墓左,
授隆司稼卿。文度濟海卒,以劉仁軌代之。
「酋長五十八人送京師(酋長五十八人を長安に送った)」のこの記事の中に筑紫君薩夜麻がいたとしたら、持統天皇の
言葉とピッタリあう。
倭国本朝(太宰府)の王は、660年に唐軍の捕虜となっている。蘇定方は、九月に長安に帰っているから義慈、隆、
孝演、酋長五十八人らが捕虜になったのが、七月だとすれば、斉明天皇の崩御も斉明七年(660年)七月であり、そこで
天智が称制を始めた。
これが、天智称制の本質ではないかと思われる。倭国本朝が空位になってしまった。
※ 白村江の戦いと壬申の乱(令和元年7月28日、九州古代史の会夏期講演会)の「白村江戦前夜~壬申の乱」のページは、
壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター講演)のページの「四、 白村江戦前夜から壬申の乱まで」の
「白村江前夜」のページを更新しています。前の講演内容のページは以下の通り。
・ 斉明紀の二元外交
・・・ 二元外交は無かった。(新説 日本書紀 第29回 飛鳥時代③ 白村江戦前後の倭国両朝 )
・・・ (『 新説 日本書紀 』のページ)
・・・ *.狂心の渠、東の垣、他は、「豊君天智天皇の業績」のページ内からリンク
■ 白村江前夜~壬申の乱~壬申の乱後
・ 白村江前夜
・・・ 斉明紀・天智紀・天武紀の概要と絶対年の再考
・・・ 天智三年( 六六四 → 六五七 ) 水城を造る ~ 天智天皇十年( 六七一) 天智天皇崩御
・・・ 天智天皇九年(六七〇) 倭国東朝が、国号を「日本」と改めた。( 旧唐書の証明 )
・ 壬申の乱
・・・ 天武天皇元年(六七二年)7月4日 (東道軍)軍を分けて、上中下の道に当てて、
・・・ 駐屯させる。将軍は中つ道へ。
(
上つ道・中つ道・下つ道 は、近つ飛鳥と遠つ飛鳥を結ぶ道)
・・・ 天武天皇元年(六七二年)7月4日 (東道軍)三輪君高市麻呂・置始連莵、上道に
当たって、箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。
・・・ (箸陵の場所が、全長460mの前方後円墳がある赤村の 小柳 で、上つ道が通る)
・・・ 「扶桑略記第五 天智天皇九年」、「万葉集一四八、一五三」が謎を解く
・ 壬申の乱後
・・・