「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※1 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター講演)よりページ作成
※2 白村江の戦いと壬申の乱(令和元年7月28日、九州古代史の会夏期講演会)の内容に修正
四、白村江戦前夜から壬申の乱まで
『日本書紀 天武天皇摂政前紀』(天武天皇紀 上巻)は、ほとんど「壬申の乱」のことしか書かれていない。これは、全然体裁が
整っていない。
『日本書紀』というのは本来、本紀だけで大王もしくは天皇の記録だけです。編年体が中心となって書かれている。ところが、
天武天皇 上巻だけは、列伝風に書いている。つまり、臣下の一人一人、部隊の隊長一人一人の経歴が個人別に書かれている。
だから全然編年体になっていない。いわゆる中国の『史記』に始まる紀伝体をとっているのが、天武天皇摂政前紀(天武天皇紀
上巻)です。『日本書紀』の中で非常に大事なところです。つまり、『日本書紀』を編集する時に「壬申の乱」のところは、体裁が
間に合わなかった。
天武天皇紀 下巻(即位後)は、綺麗に編年体で天武天皇中心に見事に編集されている。しかし、「壬申の乱」のところが、
列伝体、紀伝体とバラバラである。だから、編年に記事を切り替えた。
■ 天武天皇元年(六七二年) 六月~八月 壬申の乱
5月 朴井(えのい)連雄君
・天武に奏上
近江朝
・美濃・尾張から人夫を集め、彼らに武器を執らせた。
・近江京―倭京の間に斥候。宇道橋守に皇大弟宮の舎人の私用の粮を遮る。
6月22日 天武天皇
・村国連男依、和珥部臣君手、身毛君広に詔、美濃国安八磨郡の湯沐令多臣品治に当郡の兵を起こし、国司等に諸軍を発し、
速やかに不破道を塞ぐこと。
6月24日 天武天皇
・男依らを召し返すため、大分君恵尺、黄書造大伴、逢臣志摩を留守司高坂王に、駅鈴を乞わせる。不調の場合は志摩は報告に
還ること、恵尺は近江へ行き、高市皇子、大津皇子を呼んで、伊勢で合流すること。
・即刻、東国に向けて徒歩で出発。
・すぐ縣犬養連大伴の鞍馬に遭遇、天皇は御駕。皇后は輿。
・津振川で車駕到着。この時までに従う者。草壁皇子、忍壁皇子 舎人:朴井連雄君、縣犬養連大伴、佐伯連大目、大伴連友國、
稚桜部臣五百瀬、書首根摩呂、書直智徳、山背直小林、山背部小田、安斗連智徳、調首淡海など二十数人。女孺十数人。
・菟田(川崎町)の吾城到着。大伴連馬来田、黄書造大伴、吉野宮より追いつく。屯田司の舎人土師連馬手、従者たちの食事を
提供。
・甘羅(かむら)村(香春の一部か)を過ぎたところで、猟師二十数人と出会う。大伴朴本連大國が首。全員、供に追加。美濃王を
呼び寄せ、供に追加。
・菟田郡家の頭:湯沐の米を運ぶ伊勢國の駄五十匹に遇う。米を捨て、歩者乗る。
・大野:日没で暗く、進行できないので、いその村の家の籬を引き抜いて松明に。
・隠郡(なばりのこおり)(隠美濃か):夜半に到着。隠駅家を焚く。
・伊賀郡:伊賀郡家を焚く。
6月25日 天武天皇
・伊賀の中山 郡司等、数百の衆を率いて集まる。
・莿萩野(たらの)(等覚寺) 夜明けに到着。しばらく食事休憩。
・積殖(つむえ)の山口:香深(甲賀)越えの高市皇子一行と遭遇。
従者:民直大火・赤染造徳足・大蔵直廣隅・坂上直國麻呂・古市黒麻呂・竹田大徳・膽香瓦臣安倍。
・大山を越えて鈴鹿郡に至る。國司守三宅連石床・介三輪君子首及び湯沐令田中臣足麻呂・高田臣新家等と遭遇。五百人の兵で
鈴鹿の山道を塞ぐところ。
・川曲(かわわ)の坂下で日暮れ。皇后の疲れを見てしばらく休憩。雨が降りそう。寒さ、雷、強雨で、従者達は着物が濡れ、
寒さに堪えられなくなった。
・三重郡家に到着したところで、小屋を1軒燃やして暖を取らせる。夜半に鈴鹿の関司よりの使者、山部王・石川王を関に止め
おいていると、天皇、路直益人を迎えの使者として送った。
6月26日 天武天皇
・朝、朝明(あさけ)郡の迹太(とほ)川(貫川)の辺で、天照大神を望拝。
・益人が大津皇子(山部王・石川王でなく)と共に戻る。
従者:大分君恵尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・ 泥部の視枳・大分君稚臣・根連金身・
漆部友背等の輩
・朝明郡家に到着寸前に男依が駅馬で、美濃の師三千人を発し、不破道を塞いだことを奏上。
・郡家に到着後直ちに高市皇子を派遣して、軍を統括させた。
山背部小田・安斗連阿加布を東海へ、稚桜部臣五百瀬・土師連馬手を東山道に派遣し、それぞれの軍を起こす。
・天皇、この日に桑名郡家に宿り、そこに留まる。
近江朝
・大海人皇子の東国入りで京の内、大騒ぎ
・大友皇子、ただちに大海人皇子を追撃という言に従わず。
・大友皇子、東国、倭京、筑紫、吉備國の4方面に挙兵の使者を派遣。
吹負
・病と称して、倭京の家に退出。情勢を見て、大海人皇子が優勢と知る。
・馬来田は天皇に従う。吹負はまず手柄を立ててからと、同族や豪傑数十人を集める。
6月27日 吹負
・高市皇子より桑名郡家に使者。御所が遠くて連絡が不便。
天武天皇
・皇后を桑名に留めて、不破に入り給う。
・天皇、不破郡家に到着目前に尾張國司守小子部連鉏鉤、二萬の兵を率いて参加。その軍を分けてあちこちの 道を塞ぐ。
・野上(河内ダム付近)に到るころ、高市皇子が和蹔(上事役)よりお迎えに上がる。
近江朝よりの書直薬と忍坂直大麻呂を捕える。磐鍬は逃げ帰った。…
・高市皇子に鞍馬を賜い。軍事についてすべて授ける。
・皇子:和蹔(わざみ)に帰る
・天皇:行宮を野上(のがみ)に起こす。
6月28日 天武天皇
・和蹔にお出でになり、軍事について検査し、考えられる。
6月29日 天武天皇
・天皇、和蹔にお出でになり、高市皇子に命令を下すとともに、軍衆に号令をおかけになった。
・野上に帰還。
吹負
・留守司坂上直熊毛と内応を図る。(秦造熊、1人、2人の漢直等)
・近江の使者 穂積臣百足(小墾田の兵庫で、兵を近江へ運ぶ)を斬る。
穂積臣五百枝・物部首日向―捕えたが、しばらくして赦し、軍中に置く。
高坂王・稚狭王―軍に従わせる。
・大伴連安麻呂、坂上直老、佐味君宿那麻呂等を不破宮に遣し、報告。
天武天皇
・吹負を将軍にする―三輪君高市麻呂、鴨君蝦夷等、大ぜいの豪傑が配下に― 近江を攻撃。
7月1日 倭京軍
・吹負ら、まず乃楽に向かう。
・将軍吹負、乃楽に向かって稗田に到った日、河内から軍兵が多数やって来るという情報がもたらされた。
・坂本臣財・長尾直眞黒・倉墻直麻呂・民直根麻呂に3百人の軍士をつけて、龍田(高安城:馬ガ岳)を防御させる。
・佐味君少麻呂に数百人つけて、大坂に駐屯させた。
・鴨君蝦夷に数百人つけて、石手道(いわてのみち)(仲哀峠か?)を守らせた。
・坂本臣財等は平石野(ひらしのの)に宿営することにしていたが、近江の軍が高安城に居ると聞いて出発した。近江軍は財等が
来ると聞いて、税倉を悉く焼いて、散り散りに逃げ去っていた。そこで高安城で宿営した。
7月2日 東道軍
・紀臣阿閉麻呂、多臣品治、三輪君子首、置始連莵 数万の衆、伊勢大山を越えて倭へ。
・多臣品治は三千の兵とともに莿萩野(たらの)に駐屯させる。
・田中臣足麻呂に倉歷道(くらふのみち)を守らす。
不破軍
・村國連男依、書首根麻呂、和珥部臣君手、膽香瓦臣安倍 数万の衆を率て、不破より出でて直に近江に入らしむ。近江軍と
識別するため赤色の印を付けさせる。
近江軍
・山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等 数万、犬上川に布陣。
・山部王、蘇我臣果安・巨勢臣比等の為に殺される。この乱で進軍できず、蘇我臣果安、犬上より返って自死す。
・近江、精兵により、忽ち玉倉部邑を攻撃するも、出雲臣狛により反撃され、追い出される。
不破軍
・近江の将軍、羽田君矢國、その子大人ら、己が族を率いて来降。斧鉞を授け、将軍に拝し、北越に入らしむ。
倭京軍
・高安城より曙に西の方を臨むと、大津・丹比の両道より多数の軍兵が押し寄せる。 近江の将、壹伎史韓國の軍とのこと。
・財等、高安城より降りて衛我河(えがのかわ)を渡って、韓國と河の西で戦うが、多勢に無勢で防ぎきれなかった。
・紀臣大音が守っている盬坂道(かしこのさかのみち)に退いて、大音の軍営にいる。
・河内國司守来目臣盬籠、不破宮に帰順しようとして、発覚。自殺。
7月3日 倭京軍
・将軍吹負、乃楽山の上に駐屯。
・古京を赤麻呂、忌部首子人に守らせる。赤麻呂ら、古京で、道路の橋の板を解体して、楯を作り、京の邊の衢に立てて守る。
7月4日 倭京軍
・将軍吹負、近江に敗戦。
・東道将軍紀臣阿閉麻呂、倭京将軍大伴連吹負が近江軍に敗れたと聞き、軍を分けて、置始連莵に千餘騎を率いて、倭京に
急行させた。
・吹負、軍を解散し、一、二人の騎士を連れて逃げ、墨坂にて莵の軍に遭遇した。戻って、金綱井に駐屯し、逃げ散った卒を
招集した。
・近江軍が大坂道より到ると聞いて、将軍は軍を率いて西に向かった。当麻の衢に到って、壹伎史韓國と葦池の畔で戦う。
来目という勇士の御蔭で、近江軍は悉く敗走。
東道軍
・軍を分けて、上中下の道に当てて、駐屯させる。将軍は中つ道へ。
・近江将、犬養連五十君、中道より来て村屋に留まり、別将廬井造鯨を二百名の精兵をつけて派遣、将軍の軍営を衝く。
この時、麾下の軍勢が少なく防ぐことが難しかったが、大井寺の奴、徳麻呂等5人の弓で鯨の軍は進めなかった。
・三輪君高市麻呂・置始連莵、上道に当たって、箸陵の下で戦う。近江軍に大勝。勝ちに乗って、鯨の軍の後ろを断ったので、
鯨の軍はすべて解散して逃げ散った。鯨は辛うじて逃げることができた。
*.「箸陵の下」の場所は、全長460mの前方後円墳がある赤村の「 小柳 」で、「上つ道」が通る
・伊勢からの紀阿閉麻呂等の本隊が続々到着してきた。
*.「 上中下の道 」は、近つ飛鳥と遠つ飛鳥と結ぶ道
7月5日 近江軍
・近江の別将、田邊小隅、鹿深山を越え、こっそり倉歷に到る。夜半に軍営を急襲。
東道軍
・足麻呂側の陣は乱れ、足麻呂のみ免れた。
7月6日 近江軍
・小隅、莿萩野を急襲したが、多臣品治がよく防いで、精兵により追撃した。
・小隅はようやく逃れ、再び襲ってくることはなかった。
7月7日 不破軍
・男依等、近江軍と戦って、息長の横河(黒川)に破り、その将の境部連薬を斬った。
7月9日 不破軍
・男依等、近江の将、秦友足を鳥籠山(とこのやま)(高尾山?)で討伐して斬る。
7月13日 不破軍
・男依等、安河の濱の戦いで大勝。社戸臣大口、土師連千嶋を捕獲。
7月17日 不破軍
・栗太(くるもと)の軍を討伐しながら追う。
7月22日 不破軍
・男依等、瀬田に到る。大友皇子および群臣が橋の西側に大きな陣を張っていた。
・近江の将、智尊が精兵を率い先鋒として、不破軍の侵入を防いでいたが、大分君稚臣という勇敢な士が、敵陣中に飛び込むと、
忽ち、敵陣は乱れ、散り散りになり、大友皇子、左右の大臣たちも辛うじて逃げることができた。
・男依等、粟津岡の下に軍をまとめた。
・羽田公矢國・出雲臣狛は三尾城を攻撃して降参させた。
倭京軍
・将軍吹負、倭の地を平定し終わったので、大坂を越えて、難波に行った。彼以外の別将たちは、各々上中下の三つの道を進んで、
山前に到って、川の南に駐屯した。・将軍吹負は難波の小郡に留まって、以西の國司に官鑰・驛鈴・傳印を進上させた。
7月23日 不破軍
・男依等、近江の将、犬養連五十君および谷直盬手を粟津市に斬る。
近江軍
・秋七月庚寅朔壬子(二十三日)に、大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前に隠れて、自ら縊れぬ。
・左右大臣、群臣は皆散り散りになって消えてしまった。
・ただ、物部連麻呂のみは1・2人の舎人を従えていた。
7月24日
・将軍たちは悉く筱浪に会合し、左右大臣や諸々の罪人を探し出して逮捕した。
7月26日
・将軍達は不破宮に向かい、大友皇子の頭を捧げ、軍営の前に献上した。