「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ④景行天皇紀

■ 卑弥呼の死の直後に卑弥弓呼と戦った倭の天皇

 日本武尊は、矢傷を受けたかで、能煩野(のぼの)に到った時に思國歌(くにしのひうた)を残して死んでいく。その死の前に足が
三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と嘆いた
とある。
 亡くなった後、埋められた墓から日本武尊は白鳥となって、倭国に帰って行った。それで、その白鳥が
留まった所にもお墓を建てたので、その3基の墓を白鳥の御陵と呼ぶようになったとある。

ヤマトタケルと白鳥伝説
 さらに歩き続けたヤマトタケルは疲れて杖をついて
歩いたのでそこを「杖つき坂」といい、またある村に
着くと疲れた足が「三重(みえ)に曲がり固い餅のようだ」と
嘆いた事から「三重(みえ)」というようになりました。
 ヤマトタケルはどんどん体調が悪くなり、大和への
望郷の思いが募っていきます。
 そしてヤマトタケルは国しのびの歌を詠みます。
 「大和(やまと)は 国のまほろば たたなづく青垣(あおがき)
  山隠(やまごも)れる やまとしうるはし
」。
 ついに愛した妻を懐かしみながら、力尽き倒れてし
まいました。
 死の知らせを聞いた妻や子供たちは、伊勢の野褒野(のぼの)
(=三重県鈴鹿郡)に駆け付けました。
 するとその御陵(墓)から白い大きな鳥が天空高く
飛び立っていきました。
 ヤマトタケルは白鳥となって恋しい国へ帰って行っ
のです。
 その白鳥が飛んで留まった河内(かわち)の国の志紀(しき)に御陵を
作り、「白鳥(しらとり)御陵(みささぎ)」と呼ぶようになりました。

 

倭建命天皇の倭国防衛戦
 故、其の國より飛び翔けり行きて、河内
の國の志幾(しき)に留りき。
 故、其の地に御陵を作りて鎭め坐すなり。
 即ち其の御陵を號けて白鳥の御陵と謂ふ
なり。
 然れどもまた其の地より更に天に翔けり
て以ちて飛び行きき。
※ 思國歌は、古事記では倭建命、日本書紀
 では大足彦忍代別天皇の歌となっている。
 ここに、景行天皇(卑弥弓呼)は狗奴(肥
 後)国からの侵略者
であり、倭国(豊前国)
 を防衛したのが倭建命天皇
であったことが
 推測される。
  景行天皇の北伐は半ば成功したのかも知
 れない。
白鳥の御陵の三基目は鞍手町の古物神社
 辺りにあったことが仁徳紀に記されている。

 

Ⓒ建部大社

 三重のまがり

古宮八幡宮 摂社に白鳥神社

 「三重のまがり」は、  香春町の古宮八幡神社 の神幸祭の時の秘密の「おまがり様」というお菓子の事で
あろう。
「おまがり様」というお菓子は、日本武尊の形代(かたしろ)である。
 では、日本武尊の亡骸は何処に埋められいるのか? 古宮八幡神社の摂社「白鳥神社」の下に日本武尊は
眠っている。
   形代:神霊が依り憑く依り代の一種。

古宮八幡宮の神幸祭り
 古宮八幡宮の祭神豊比売命は、香春神社へ
下向し、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻
るという祭り。
 初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て
神事を行い、秘密のおまがり様を唐櫃に納め
て古宮に持ち帰る。
 午後から杉神輿を担いで天矢大神宮(天照
大神)まで行き神事を行い、御旅所に一泊す
る。
 2日目の午後、清祀殿と宮原で神事を行い、
古宮八幡神社へ戻り、行事が終了する。
 神幸祭りには、必ず長光家でつくったおま
がり様
を迎えにいく。
 江戸時代、香春宮への行幸の時もおまがり
という龍頭の餅を献じていたと『古宮八幡
宮御鎮座伝記』に記されている。

 

 白鳥が飛んでいった先の一つが、  田川市伊田の白鳥神社 である。平安時代の最澄は、日本武尊が豊前国に
居た
事を知っている。最澄は、奈良県(大和国)に白鳥神社を建てなかった。
 この田川市伊田の白鳥神社の隣の山に空の箱式石棺が一つある。

倭建命天皇の倭国防衛戦
※ 白鳥神社(田川市)社伝
 延暦年中(七八二年~八〇六年)、伝教大師
最澄】が入唐し学行を終えて帰朝の途中、海
中の船路先に白鳥が飛び、ある夜大師の夢の中
に白鳥が現れ「自分は日本武尊である。
 汝の船路を守り、身を守護するから昔麻剥を
討つために行った
豊前国の高羽川の
川辺
に自分を齋き
祀れ」と告げたと
いいます。
 大師は帰朝後、
高羽川の川辺を尋
ねた所、白鳥が飛
来し、伊田の里
(現:田川市伊田
とその付近)の真
中の山に止まりま
した。

 

 3基目の白鳥の御陵は、  鞍手町の剣岳 の近くにある鎧塚古墳であろう。伝承では、日本武尊が鎧を奉納した
場所となっている。
 鎧塚というのは、鎧の墓ではないだろうか。鎧が埋められているという事は、家来たちが鎧だけは鞍手の倭の
地に持ち帰ったというのであろう。
 この鎧塚古墳も推定、白鳥陵である。

 鎧塚古墳(鞍手町)

 Ⓒ鞍手町教育委員会

 鎧塚古墳1号墳(鞍手町)

推定:白鳥陵

 

 日本武尊の居た剣岳の下が、   新北津 です。
 『魏志倭人伝』に伊都国には一大率(王)がいた。日本武尊は、卑弥呼の死の直後に景行天皇(本当は、狗奴
国の卑弥弓呼
)と戦った倭国の本当の天皇である。草薙剣を持っていたのは、日本武尊である。
 日本武尊は、伊都国の長官の爾支(にき)、一大率である。田川の方面の倭国の王が降伏してしまったから、倭国を
守る為に、No2だった伊都国の長官の日本武尊が立ちあがって、倭国王を名乗った。
 だから日本武尊(やまとたけるのみこと)です。残念ながら『日本書記』では、天皇として扱われなかっただけ
である。

魏志倭人伝
 女王国より以北には、特に一大率
を置き諸国を検察せしむ。諸国、之
を畏れ憚る。
 常に伊都国に治し、国中に於いて
刺史の如き有り。
 王使を遣はして京都・帯方郡・諸
韓国に詣らしめ、及び郡の倭国に使
するや、皆に臨みて捜露し、文書・
賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、
差錯するを得ず。
(中略)

 

倭は 国の真秀 畳な付く
 青垣 山隠れる 倭し愛はし

 新北津跡

 遠賀川流域(海抜0m地帯で昔は海であった)