「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 ■ 天皇家と蘇我氏の歴史④ 敏達天皇・用明天皇

渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇 在位五七二 ~ 五八五)は廃仏派寄りの天皇であり、蘇我氏よりも物部氏を重用した帝である。

渟中倉太珠敷天皇、天國排開廣庭天皇第二子也、母曰石姬皇后。石姬皇后、武小廣國押盾天皇女也。
天皇、不信佛法而愛文史。廿九年、立爲皇太子。卅二年四月、天國排開廣庭天皇崩。
元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是月、宮于百濟大井。以物部弓削守屋
大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣

 冒頭から「天皇、仏法を信ぜず」とある。百済大井宮は所在が分からない。物部守屋が大連を引き継ぎ、蘇我馬子が大臣となりそれぞれ
代替わりしている。
 敏達天皇は外交面においては、欽明天皇の遺言である任那復興を図って百済との協議を続けたが、ほとんど進展は見られなかった。
同時に新羅とも通交し、任那の調を受け取っていたと記されている。内政面では、廃仏派寄りであったから、廃仏派の物部守屋と中臣勝海
(鎌子の子か)が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子が対立するという構図になっていた。
 崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、敏達天皇一四年(五八五)に物部守屋と中臣勝海が天皇に
奏上し、仏教禁止の勅を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。焼いた仏像の残りの仏像はまたも 難波の堀江(今川) に棄てさせた。
同日に
「由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司、便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市。」
の記事が遺されている。
 馬子は勅命に違わず、大事にしていた尼等を呼び出し、御室にさずけた。役人が尼等の法衣を奪い、絡め捕え、海石榴市の駅舎で
鞭打った。
杖刑に処したのである。この海石榴市が行橋市の「 椿市廃寺 」の辺りであることは間違いあるまい。
 この直後に天皇と守屋は疱瘡(天然痘)に罹る。疱瘡は国中に広がり、人民は「是、仏像焼きまつる罪か」と謂う。その年の八月に敏達は
病が重くなり崩御(陵については後述する)。仏教を巡る物部氏と蘇我氏の争いは更に次の世代に持ち越された。

 (*)海石榴市(つばきち)は、景行紀に補注にあるように豊前の土地を示しており、明らかに行橋市の椿市の場所であり、奈良県(大和)の海柘榴市・椿市を
    指してないない事は、明らかである。

橘豐日天皇(用明天皇 在位五八五 ~ 五八七)は崇仏派に転じる。

橘豐日天皇、天國排開廣庭天皇第四子也、母曰堅鹽媛。
天皇信佛法尊神道。十四年秋八月、渟中倉太珠敷天皇崩。
九月甲寅朔戊午、天皇卽天皇位。宮於磐余、名曰池邊
雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、
並如故。壬申、詔曰、云々。

 「天皇仏法を信ず」で用明紀は始まる。池邊雙槻宮は探索中。ただし、みやこ
町歴史民俗博物館の学芸員の方に案内されて、勝山地区北部の勝山池田の地に
「古代の池」跡を教えていただいたので、勝山黒田にある 黒田神社 池邊雙槻
跡ではないかと思われる。蘇我馬子は大臣、物部守屋は大連と故のとおりである。

元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后、是生四男、其一曰廐戸皇子更名豐耳聰聖德、或名
豐聰耳法大王、或云法主王
、是皇子初居上宮、後移斑鳩、於豐御食炊屋姬天皇世、位居東宮、總攝
萬機、行天皇事、語見豐御食炊屋姬天皇紀、

 廐戸皇子が登場する。その割注に聖徳太子と一致する名は無い。敏達五年三月条に豐御食炊屋姬尊(のちの推古天皇)を立后した
記事がある。そこに「是生二男五女、其一曰菟道貝鮹皇女更名、菟道磯津貝皇女也、是嫁於東宮聖德の記事があり、
東宮聖德」が最も聖徳太子に近い。古事記には「聖徳」の文字すらない。聖徳太子の名は、記紀以外の文献に出る。  
 用明紀の前半は、穴穂部皇子が物部守屋と共に、敏達の寵臣だった三輪君逆(さかふ)を殺す事件が記されている。

於是、穴穗部皇子陰謀王天下之事而口詐在於殺逆君、遂與物部守屋大連率兵、圍繞磐余池邊。逆君、
知之、隱於三諸之岳。是日夜半、潛自山出隱於後宮。炊屋姬皇后之別業。是名海石榴市宮也。

 物部守屋の兵に囲まれた逆君は、危険を察知して三輪山に隠れ、山より出て炊屋姬皇后の別荘に隠れる。是を海石榴市宮と名づくとある。
のちの推古天皇の皇后時代の別荘が、どうやら 椿市廃寺 の前身だったようだ。  
 結局、三輪君逆は殺された。そこの割注にこうある。「此の三輪君逆は、譯語田天皇の寵愛する所なり。悉に內外の事を委ねたまひき。
是に由りて、炊屋姬皇后と馬子宿禰と、倶に穴穗部皇子を發恨(うら)む。」馬子と守屋の憎悪は頂点に達する。  
 翌二年夏四月、病に罹った用明天皇は群臣に詔して、「朕、三宝に帰(よ)らむと思ふ。卿等議れ。」とのたもうた。馬子と守屋が激しく
議論する中、用明も疱瘡が重くなり崩御する。

 秋七月、磐余池上陵に葬りまつる。用明記に、「御陵在石寸掖上
後遷科長中陵
とあり、推古元年九月条に葬橘豊日天皇
於河内磯長陵
とある。この科長中陵がみやこ町に現存する。勝山黒田
八二五にある 橘塚古墳 である。六世紀後半頃の巨石墳だ。
 みやこ町の解説書に拠れば、墳丘は南北三七m、東西三九mのやや横長の
方墳で、それをとりまく周濠は南北五三・五m、東西五二mの縦長長方形と
推定されている。主体部は花崗岩の巨石を用いて築かれた複室構造の横穴式
石室で、石室の長さは一六・三m。玄室は幅三・二m×長さ四・〇mの長方形で、
天井までの高さは三・八m。みやこ町の学芸員の方が強調されたのは、奈良県
の巨石墳の石室は単室構造であるが、みやこ町の石室は複室構造であること、
したがってみやこ町の巨石墳の被葬者の方が身分が高いのではないかとの推察である。
 さらに解説書には、橘塚古墳甲塚方墳と同様に天皇、 蘇我氏等の有力豪族と何らかの関係があった可能性が伺えます」と控えめに
書いてあるが、正真正銘の豐日天皇(用明天皇)科長中陵だからこそ「」の名が遺されたと考えている。

 黒田神社

「写真」

 橘塚古墳

「写真」