「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 ■ 天皇家と蘇我氏の歴史⑥ 推古天皇

 豐御食炊屋姬天皇(推古天皇 在位五九三 ~ 六二八)紀は即位前紀から始まる。

豐御食炊屋姬天皇、天國排開廣庭天皇中女也、橘豐日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女、姿色端麗、
進止軌制。年十八歲、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歲、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歲、當于
泊瀬部天皇五年十一月、天皇爲大臣馬子宿禰見殺。
嗣位既空、群臣請渟中倉太珠敷天皇之皇后額田部皇女、以將令踐祚。皇后辭讓之。百寮上表勸進至
于三、乃從之、因以奉天皇璽印。冬十二月壬申朔己卯、皇后卽天皇位於豐浦宮。

 推古天皇は、もはや蘇我氏の傀儡王権にしか過ぎない。
 記事の大半は聖徳太子の業績であるが、これは筑紫国の阿毎多利思比孤(日出處天子)の業績である

(十一年)十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・
大義・小義・大智・小智、幷十二階

 官位十二階の制が『隋書』俀國傳の
「内官有十二等。一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、
次小智、次大信、次小信、員無定數。」

に酷似することは当然のことである。

十二年春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條

 十七条憲法発布に関しても、皇太子阿毎多利思比孤に置換すれば容易に理解できよう。ただし、その十七条憲法全文が掲載されている
ことは貴重この上ない。

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、
從妹子臣至於筑紫
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術

 『隋書』俀國傳の大業三年(607年)の翌年(大業四年、608年)に
「明年、(中略) 又至竹斯國、又秦王國。」
の記事がある。

 推古一六年(六〇八)秋八月に、隋の裴世清を京の海石榴市の衢(ちまた)に迎えている。これは、裴世清が筑紫国の阿毎多利思比孤を訪れた
後に秦王国(豊国)を訪れたという『隋書』俀國傳の記事と呼応する。

 (*1)海石榴市(つばきち)は、景行紀に補注にあるように豊前の土地を示しており、明らかに行橋市の椿市の場所であり、奈良県(大和)の海柘榴市・椿市を
     指してないない事は、明らかである。
 (*2)大芝英雄氏の『豊前王朝』の説明より『隋書』俀國傳の記事にある「秦王國」というのは、弟国の意味である。

(廿八年)是歲、皇太子嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

 この記事は重大である。筑紫君の阿毎多利思比孤と豊国の大臣蘇我馬子が、『天皇記』 『國記』 『國造本記』を録したと解読できる。
聖徳太子蘇我馬子等が著わした」との序文を有するのが『先代旧事本紀』であり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。
江戸期末以降、長く偽書の扱いを受けてきたが、再考されてよい史書である。

 神皇系図1巻 - 現在、欠けて伝わらない。

 第1巻「神代本紀」「神代系紀」「陰陽本紀」- 天地開闢、イザナギ神話。

 第2巻「神祇本紀」- ウケイ神話、スサノオ追放。

 第3巻「天神本紀」- ニギハヤヒ神話、出雲の国譲り。

 第4巻「地祇本紀(一云、地神本紀)」- 出雲神話。

 第5巻「天孫本紀(一云、皇孫本紀)」- 物部氏、尾張氏の系譜。

 第6巻「皇孫本紀(一云、天孫本紀)」- 日向三代、神武東征。

 第7巻「天皇本紀」- 神武天皇から神功皇后まで。

 第8巻「神皇本紀」- 応神天皇から武烈天皇まで。

 第9巻「帝皇本紀」- 継体天皇から推古天皇まで。

 第10巻「国造本紀」- 国造家135氏の祖先伝承。

 上は、ウィキペディアから採った構成だが、私の「倭国=豊国説」「倭国易姓革命論」 「倭国北伐考」 等の起点は、すべて『先代
旧事本紀』にあったと謂っても過言ではない。少なくとも、私は偽書とは思っていない。
 さらに云うなら、第5巻の「物部氏、尾張氏の系譜」に物部氏・蘇我氏の系譜をすら見ているのである。怖すぎる推測だが、筑紫君の
阿毎多利思比孤と豊国の大臣蘇我馬子は、あるいは豊国の天皇を推古天皇の代で終わらせ、筑紫国一系の新・天皇家を確立しようとした
のではないだろうか。現に、古事記も推古天皇で終わっているではないか。

廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。

 厩戸豐聰耳皇子が推古廿九年(六二一)に薨去した。ところが、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘には

法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩。明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、
並著於床時、王后王子等及与諸臣深懐愁毒、共相発願。仰依三宝、当造釈像尺寸王身。蒙此願力転病
延寿安住世間。若是定業以背世者、往登浄土早昇妙果。二月廿一日癸酉王后即世、翌日法皇登遐。」

 とあり、上宮法皇が法興丗二年=推古卅年(六二二)に登遐(崩御)した。筑紫年号の法興は丗二年(六二二)に上宮法皇の崩御によって
終わる。この上宮法皇が筑紫君の阿毎多利思比孤の晩年の称号であろうことは疑いない。
 つまり、『日本書紀』の厩戸豐聰耳皇子」こそが造作された存在であり、後の「聖徳太子という虚像」の始まりと考えられる。

卅四年春正月、桃李花之。三月、寒以霜降。夏五月戊子朔丁未、大臣薨、仍葬于桃原墓。大臣則稻目
宿禰之子也、性有武略亦有辨才、以恭敬三寶。家於飛鳥河之傍、乃庭中開小池、仍興小嶋於池中、
故時人曰嶋大臣。

 権勢を誇った蘇我馬子も、西暦六二六年、薨去した。桃原墓  彦徳甲塚古墳 か。飛鳥河の傍の家も不明である。

 彦徳甲塚古墳(蘇我馬子の桃原墓か)

「測量図」

 黒田地図2=綾塚古墳(推古天皇の科長大陵)

「地図(みやこ町勝山黒田)」

卅六年春二月戊寅朔甲辰、天皇臥病。三月癸丑、天皇崩之。秋九月己巳朔壬辰、葬竹田皇子之陵。

 西暦六二八年、推古天皇崩御。竹田皇子の陵は推古記に「御陵在大野岡上。後遷科長大陵也」とあるから、みやこ町黒田に
ある 綾塚古墳 (黒田地図2)と思われる。
 別名が女帝神社(貝原益軒は一六九四の「豊国紀行」に「女体権現」と誤記している。女帝は呉音だとニョタイ。)であり、 橘塚古墳 より
大きく若干新しく、七世紀前半頃の成立とされている。科長大陵にふさわしい。
 なお、明治四年の女帝神社皇妃御陵墓絵図が遺されている。さらに、明治五年に来日したイギリス人の造幣技師ウィリアム・ガウランドが
綾塚古墳の石室実測図を作成し、現在大英博物館の中に収められている。