「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 白鬚神社(福智町金田の玉穂山と倭三山の間にある)= 宇治天皇の比良の宮、石上山

 著書『真実の仁徳天皇』の中では、宇治天皇の新宮殿 「比良の宮」の候補地に、香春町 中津原 を挙げているが、
新たな候補地が現れた。
 それが、この白鬚神社である。

※ 壬申の乱の舞台 糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった
 (平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より

■ 白鬚神社の別社名は、白鬚大明神・比良明神 

 ここの白鬚神社も琵琶湖の辺に移っていった。下記は、その白髭神社の伝承である。御祭神は、猿田彦命であるが、
これは、福智町伊方の白鬚神社も同様である。
 別社名が、比良明神 とある。御神徳に「古事記によると、猿田彦神は「天の八衢に居て、・・・」と記されている。
その「天の八衢」が、ここ金田の近くにあると言われている。
 また、猿田彦の容貌は、「その鼻の長さ七咫、・・・」とあり、英彦山の大天狗(豊前坊)を思わせる。

<白鬚神社>

「写真」

御 祭 神  猿田彦命(猿田彦大神)  
御 神 紋  左三つ巴
御 社 名  白鬚神社   
別 社 名  白鬚大明神・比良明神
御 神 徳  

 古事記によると、猿田彦神は「天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は芦原中津国を光す神」だと
見えている。高天原からこの国土に降る道の途中に、四方八方に分岐する道があり、猿田彦神はそこに
居られて道を守り、道を教えた神様である。このことは天孫の降臨について、天孫の一行にその行く手を
教え導かれた功績を褒め称えたものである。
 これは大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守り神として悪いものを防ぎ、よき方
への導きの神であったことを示したものと言えよう。

 日本書紀によると、この神は強い力の持ち主で威風堂々たる容姿の持ち主であったようだ。「その鼻
の長さ七咫、背の長さ七尺余、また口尻明りて耀れり、眼は八咫鏡の如くにして耀輝けること、赤酸醤
(ホウズキ)に似たり」とある。らんらんたる眼を持った偉丈夫の姿を彷彿とさせる大神である。
 そしてその威力はこの神に「目勝つ神」はなかったとあるように、その眼力が窺えるのである。
この神が岐れ路道におられて睨みを聴かせているのだから、悪いものは近寄ることさえできない。

■ 真実の仁徳天皇である宇治天皇の新宮殿の「比良宮」

 著書『真実の仁徳天皇』を発表した時には、宇治天皇の新宮殿の比良の宮だ何処にあるかが、見つかっていなかった。
最初に、『日本書紀 仁徳紀』に記されている三年課役を免除した後に、課役を科せて新宮殿を造る記事です。

 冬十月に、甫めて課役を科せて、宮室を構造る。是に、百姓、領うながされずして、老を扶け幼を
携へて、材を運び簣こを負ふ。日夜と問はずして、力を竭つくして競ひ作る。是を以て、未だ幾時を
經ずして、宮室悉に成りぬ。故、今までに聖帝と稱めまうす。

 その新宮殿の完成の成った後に宇治天皇が、宇治の宮の事を思い詠われた歌が『萬葉集 七番歌』である。

 金の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の京の 仮廬し思ほゆ

【新解釈】
 金の野の草を刈って屋根にふいて宿っていた、あの宇治の宮室(福岡県田川郡香春町古宮ヶ鼻の 阿曽隈社 )の
質素な造りがなつかしく思い出される。

 宇治天皇の諸典籍の師である王仁が、新宮殿の比良の宮の完成を祝った歌が、『百人一首 序歌』 である。

 難波津に 咲くや木の花 冬木成 今は春べと 咲くや木の花   (王仁)

【新解釈①朝廷の御初めを祝った歌】
 宇治天皇の新宮殿である岡(遠賀)の海の難波津にある 比良の宮 に咲き誇っているよ、梅の花が。ちょうど、
冬、木の芽が盛り上がるように、宇治帝が 三年間、人民の課役を科せられずに、雨漏りのする粗末な宇治の京の
仮廬のような宮殿で過ごされ、その間に人民は富み、やがて炊煙が盛んに立つようになった。
 天皇は人民と共に富み栄え、新宮殿の成った今を、聖帝の御世の春(勢いの盛んな時期)と讃えるかのように、
咲き誇っているよ、梅の花が。 四〇九年

「地図」

 宇治天皇の宇治の宮が、香春町の阿曽隈社であったとした時に人民が新しく造ってくれた比良の宮の場所が
判らなかったが、白鬚神社らしい。この白鬚神社の周りに西古門、中古門、東古門という古門( ふるかど)と
付く地名が並ぶ。その古門の「 」という文字を音読みすると「 もん」であり、「ふるもん」となる。
 石上神社と言えば、現在では奈良県天理市の石上神宮という事になるが、元は鞍手町にある 古門神社 
思っている。
 この白鬚神社の周辺に古門の地名が3ヶ所もあるので、ここが石上神社の一番の元宮かなと思われる。
糸田の  泌泉 が、「石上の池 辺に須弥山を作る。」と記された場所である。白鬚神社が、石上神社であり、
宇治天皇の新宮殿の比良の宮であろう。

■ 『日本書紀 斉明紀』に記された「石上山(いそのかみやま)」の地

 斉明天皇の「狂心の渠」は、『日本書紀』に以下のように記されている。

 (斉明)二年(六五六)、(中略)
 飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。(中略) 號して後岡本宮と曰ふ。田身嶺に、冠らしむるに周れる
垣を以てす。復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
時に興事を好む。①水工をして渠穿らしむ香山の西より、石上山に至る。二百隻を以て、石上山の
石を載みて、流の順に控め引く。(菟道)宮の東の山に石を累ねて垣とす。
 時の人の謗りて曰はく、「①狂心の渠功夫を損し費すこと、三萬餘②垣造る功夫を費し損す
こと、七萬餘。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といいふ。(中略)又③吉野宮を作る。

 ここの「香山の西より、石上山に至る」と書かれている「石上山」を香春町内に見つける事が出来なかった。
 この白鬚神社のある山が、もし石上山だったとしたら斉明天皇が造られた「狂心の渠」は、天智天皇が造られたかも
知れない。
 だから、壬申の乱の後に、狂心の渠を謗られた謎が解けた。何故、人民の命を支えた水路を悪く言う必要があるのか?
それは、壬申の乱に敗れた天智天皇を貶める為であった。
 もし、この白鬚神社が石上山であり、香山の西よりこの場所まで、地下水路が来ていれば、桃坂豊さんが調査した
 地下水路 狂心の渠)は、約8kmに及ぶ事になる。ちょっと考え難いが候補地が一つ見つかった。

 

 <所在地のGoogelマップ>