「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 緑川(落合)= 景行天皇の豊国北伐の地、「緑野」

■ 大足彦忍代別天皇の豊国北伐

『神功皇后紀と魏使倭人伝』2017年1月29日、大任町講演時に景行天皇の出身地を播磨から日向に訂正。

 播磨 日向の国から出た大帯日子命は、周防の娑麼から渡海し、火国を北上し、宇佐御木(豊前市)
高羽(田川)緑野(添田町緑川)來田見(北九州市小倉南区朽網)
と明らかに豊国北伐 を行っている。

 

*.景行天皇、和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)。播磨風土記には
  大帯日子天皇。

*. 帝踏石 (北九州市小倉南区朽網西二一二八)が現実に存在。

 

※ 古事記を読む-神武から景行まで(平成28年9月25日、於 添田町町民会館)の講演より

『日本書紀 景行紀 十二年 』の記述とは異なる伝承が、添田町に伝わっている。
(「大足彦忍代別天皇の豊国北伐」のページは、 こちら です。)

 唯殘しき賊者有り、一をば鼻垂と曰ふ。妄に名號を假りて、山谷に響ひ
聚りて、菟狹の川上に屯結めり。二をば耳垂と曰ふ。殘ひ賊り、貧り婪き
て、屢人民を略む。是御木の川上に居り。三をば麻剥と曰ふ。潛に徒黨を
聚めて、高羽の川上に居り。四をば土折猪折と曰ふ。緑野の川上に隱れ住
りて、獨山川の險しきを恃みて、多に人民を掠む。

 

<添田町の伝承>

 彦山川上流の深倉川のあたりに
鼻垂彦耳垂彦という者が住んで
いて、大きな勢力を持ち、大和の
朝廷に逆らっていた。
 景行天皇は、熊襲をはじめとす
る九州の勢力をおさえるために、
田川にやって来て鼻垂彦・耳垂彦
の軍を破った。
 そのとき、今の深倉川は血に染
まり、血みどろ川と呼ばれるよう
になった。
 後世になって「みどろ」が緑に
転訛して緑川の名になったという。
「緑川」
添田町の伝承(1)

 

 景行天皇の皇子大和武尊の軍勢
が、彦山川の上流に勢力をはる
折居折
の軍を破って、血みどろ川
と呼ばれるようになったという。
 土折居折が大和武尊から討たれ
たという話は田川市猪膝にもあり、
土折居折を切った太刀を洗ったと
いう大刀洗の井戸が、町の出入口
の道路そばにある。
 別の話がある
添田町の伝承(2)

*.景行天皇は、本当の天皇では無いと思われる。『播磨國風土記』によれば、天皇の象徴である三種の
 神器の劔、「草薙の劔」を佩いていない。豊国が倭(やまと)であるので、熊襲を退治する為にやって
 来たのではなく、景行天皇は、やまと国への侵略者である。

*.土折居折が、日本武尊の軍を裏切って、侵略者の景行天皇側に寝返ったのかも知れない。土折居折が、
 日本武尊に討たれたという話は、田川市 猪膝 にもある。
  「秋月街道 猪膝宿 構口跡」の所に「大刀洗の井戸」があります。その南には、白鳥神社もあります。

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