「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 鹿毛馬(かけうま)神籠石(こうごういし)  =  ()

 魏志倭人伝を解く! 宗像(神湊)が末盧国なら邪馬台国は田川だ(平成28年8月7日、於 田川市民会館講堂)の講演内容の「 末盧国からの陸行および邪馬台国周辺国 」の地図のページを追加しました。伊都国奴国の比定場所が修正されています。

 「魏志倭人伝を解く!(その12)( 魏使のルート・陸行邪馬台国に至る)(2016-8-7)」は、
   こちら からご視聴頂けます。

■  鞍手郡誌(昭和 9 年発行版)射手引神社社伝による神武天皇東征の地( 東征コース  K:鹿毛馬)

■  小竹町  亀山神社(太歳社) から飯塚市頴田町 鹿毛馬神籠石の辺りが「()」の中心地。

 始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。・・・又、南一海を渡る千余里名づけて澣と曰ふ。一支国に至る。・・・又、一海を渡る千余里末盧国 田熊石畑遺跡 )に至る。・・・東南陸行五百里、伊都(いつ) 新北 )(但し、新北:伊都国の津)に到る。・・・東南して()亀山神社)~( 鹿毛馬神籠石)に至るまで百里。

■   女王卑弥呼の都 は、田川郡。香春から遠くない位置。

 

 倭国(現在の福岡県・佐賀県)には、  御所ケ谷 鹿毛馬 高良大社  女山   おつぼ山 等、神籠石の遺跡が集中している。

 福永晋三先生の論文『 天満倭」考-「やまと」の源流 』の15ページに「神籠石の遺跡が集中」の記述があります。

 福永晋三先生の論文『 邪馬臺国の位置と年表改訂版 』の4ページに「()」の記述があります。

 福永晋三先生の論文『 魏志倭人伝と記紀の史実-「伊都能知和岐知和岐弖」考 』の10~13ページに「()」の記述があります。

以下、『新説日本書紀(第10回、2021年12月17日)』講座動画の画像より

  射手引神社社伝に採れた鹿毛馬(嘉穂郡頴田村)の謂れが、「天降八所神社縁起」の中に書かれ
  ている。動画の説明は、  こちら からご視聴頂けます。

第二次神武東征 
射手引神社社伝等+日本書紀
一、鹿毛馬(同)
天降八所神社縁起(頴田村大字佐與字柱松)
「此の時、駒主命が、一頭の駿馬を献じようとし、牧司に命じて之を御前に捧げやうとした際、馬は驚いて高く嘶き、一散にして駆け出して深山に飛び込んだので、牧司は後を追ふて曳き帰ったといふが、その駆け出したところを駆の馬といひ、馬の駆け込んだ山を馬見山といひ、献上した駿馬が鹿毛であったところからこの駈の馬は鹿毛馬ともいひ伝えて居ります。」
一、嚴島神社(同)
   天皇、宗像三女神を祭り給ふ
 由緒に「神武天皇御幼名狭野命と申奉る時筑紫を回り給ふとて豊前国より此村に移給ふ馬牧より足毛の馬を奉り其馬に乗せ給ひ嘉穂郡馬見村へ出給ふ迄老翁見送り奉るより當村駈馬村と唱ふ村稱の起源也」

 <所在地のGoogelマップ> ・・・ 「鹿毛馬神籠石」入口の案内板の場所を表示