「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 琴弾の滝 = 日本武尊(倭建命)の白鳥陵/天智天皇にゆかりの地

 下記の『日本書紀 景行紀』の記述にある日本武尊の三ヶ所の白鳥陵の一つの「倭琴彈原」が琴弾の滝

 時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。
 於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。
 故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。
 是歲也、天皇踐祚卌三年焉。

 時に日本武尊、白鳥に化りたまひて、陵より出で、倭国を指して、飛びたまふ。群臣等、因りて、其の棺櫬を開きて視たてまつれば、
 明衣のみ空しく留りて、屍骨は無し。是に、使者を遺して白鳥を追ひ尋めぬ。則ち倭の琴弾原に停れり。仍りて其の処に陵を造る。
 白鳥、更飛びて河内に至りて、旧市邑に留る。亦其の処に陵を作る。故、時人、是の三の陵を号けて、白鳥陵と曰ふ。然して遂に
 高く翔びて天に上りぬ。徒に衣冠を葬めまつる。因りて功名を録へむとして、即ち武部を定む。是歳、天皇踐祚四十三年なり。

   ※ 古事記を読む-神武から景行まで(平成28年9月25日、於 添田町町民会館)の講演で、白鳥の御陵の二基目「琴弾原」を大原に訂正。

  白鳥の御陵は、『日本書紀』に拠れば三基あり、二基目は、琴弾原にあると記されている。赤村の琴弾の滝の下流の 大原 に比定して
  いる。三基目は鞍手町の 古物神社 の辺りにあったことが『仁徳紀』に記されている。

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

天智四年(六六五 → 六六四

冬十月己亥朔己酉(十一日)、大きに菟道(香春町  阿曽隈社 に閲す。

琴弾瀧 の由来(標石)
 紀元千三佰三拾(六七〇)年の頃、天智天皇 御西下豊前の国に御立寄の節  ある日此の
 瀧に御遊覧あらせられ瀧の側に御休みの時、  天皇の御心を慰め奉らんと天女が天下りて
 琴を弾いたので 天皇の叡感斜めならず「琴弾瀧」と御命名遊された    
 其後命婦石川色子 琴の名手季氏と共に此の瀧の岩上に坐し 別れの秘曲を奏した所、
 余韻嫋嫋として瀧に感応し、其音澄んで琴の如く  
 ありしため、それ以来一段此の瀧の名を発揮したり

 天智天皇は、元々、豊国の天皇であり、上記の「御西下豊前の国に御立寄の節」の記述は、
 要らない。
 この琴弾の滝の由来にある琴の名手季氏は、明らかに中国人であり、日本書紀 天智四年の
 「菟道に閲す」とある記事の見事な証拠となる。

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 琴弾の滝

「写真」

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