「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 椿市廃寺(蘇我馬子が建てた難波四天王寺跡)、海石榴市宮跡(推古天皇の皇后時代の別荘)

※ 椿市廃寺は、7世紀末ないし8世紀前半に建立された古代寺院跡である。
  現在は旧伽藍の中心部に真言宗願光寺(がんこうじ)が建つが、境内にはかつての講堂の礎石や掘り出された塔の
 心礎(しんそ)が残る。
  講堂と塔の推定位置から、主要建物が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置であったと想定され、発掘調査で掘立柱の
 回廊の存在も明らかになっている。

※ 四天王寺式伽藍配置から建物(木材)は、大阪の四天王寺へ移築された。

 「 日本王朝の東遷 」によると思われる廃寺の情報です。

  七~八世紀の古代寺院、椿市廃寺は、著名な四天王寺式伽藍配置。この寺こそあるいは難波四天王寺ではないか
 と推測される。
  行橋市入覚は古代淡海の最奥部に位置し、その名残の溜池も散在する。「波立ち難し」「難波」の地
 相応しい。 <『宇治の京』より引用>

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
  (平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 於是、穴穗部皇子陰謀王天下之事而口詐在於殺逆君、遂與物部守屋大連
率兵、圍繞磐余池邊。逆君、知之、隱於三諸之岳。是日夜半、潛自山出隱
於後宮。炊屋姬皇后之別業。是名海石榴市宮也。

 物部守屋の兵に囲まれた逆君は、危険を察知して三輪山に隠れ、山より出て炊屋姬皇后の別荘に隠れる。是を
海石榴市宮と名づくとある。 のちの推古天皇の皇后時代の別荘が、どうやら椿市廃寺の前身だったようだ。

(*)海石榴市(つばきち)は、景行紀に補注にあるように豊前の土地を示しており、明らかに行橋市の椿市の場所であり、
  奈良県(大和)の海柘榴市・椿市を指してないない事は、明らかである。

 平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田
一萬頃、賜迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺

 乱後、四天王寺法興寺が建立された。廐戸皇子の故事は偽作の可能性が強く、両寺は馬子が建てたらしい。
四天王寺は椿市廃寺に 建てられたようだ。礎石跡から四天王寺式伽藍であることが確認されている。
 先の用明紀に示したとおり、炊屋姬皇后の別荘(海石榴市宮)跡に建てられたようだ。後に、大和王朝が現在の
近畿に遷都した際に、大阪(難波)に移築されたらしい。

 法興寺は 豊前国分寺跡 に建っていたようだ。みやこ町の解説書に、
「当時豊前国分寺は東西約一六〇m、南北一六〇~二二〇mほどの広大な範囲を寺域とし、その内側に南から北へ
 一直線に南門・中門・金堂・講堂が建ち並び、金堂の南東側に七重塔がそびえ立っていたものと見られています。」

とある。
 出土物に鬼瓦片(大宰府系)がある。椿市廃寺からは鴟尾片と百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土している。また、
豊前国分寺跡の南にある 上坂廃寺 からも椿市廃寺と同様の出土物が見られる。これらの鴟尾や瓦がどこで作られたかが
最近判明した。
 築上町の船迫窯跡である。奈良文化研究所の大脇潔先生が船迫窯跡の鴟尾を復元された。百済様式である。
この完成品が上坂廃寺椿市廃寺金堂の切妻屋根に載っていたそうだ。
 鬼瓦片(大宰府系)百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦も豊前の廃寺から出るすべての瓦が船迫窯跡で作られている。
 したがって、日本書紀に記された「蘇我氏の寺院」は全てここ旧京都郡にあったと言わざるを得ない。「論より
証拠」とはこのことである。

「写真+四天王寺図」
「四天王寺伽藍図+写真(互、鴟尾)」

 

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