「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた

※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 ■ 天皇家と蘇我氏の歴史③ 欽明天皇

 次の天國排開廣庭天皇(欽明天皇 五三九 ~ 五七一)の在位中に、大伴金村大連が失脚し、蘇我稲目宿禰大臣と物部尾輿大連とが
二大勢力となる。

冬十二月庚辰朔甲申、天國排開廣庭皇子卽天皇位、時年若干。尊皇后曰皇太后、大伴金村大連
物部尾輿大連爲大連、及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣、並如故。

 欽明即位時は、大伴金村・物部尾輿・蘇我稻目の三頭政治であった。

元年秋七月丙子朔己丑、遷都倭國磯城郡磯城嶋、仍號爲
磯城嶋金刺宮

 欽明は磯城嶋金刺宮(福智町金田の敷島辺り)に遷都する。「 松野連系図 」に
拠れば、倭王武の玄孫「牛慈」が「金刺宮の御宇、服降して夜須評督と為」って
いる。完全に豊国に王権が移ったようだ。

九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣
稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、
伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。
曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆
唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許賜所求。
由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐
。」

 「敷島」を発見

「Google Earth(福智町敷島)」

 元年九月に「難波祝津宮に幸す」とある。この一文が重大な遷都記事であった。欽明はその治世の大部分を豊前の難波宮で過ごした
のである。そこは今日の京築地区のどこかにあり、京築地区は「履中記」に云う「近飛鳥」の地でもある。「遠飛鳥」は田川郡赤村辺り
である。両地に 飛鳥川 (犀川・今川)が流れる
 右図は行橋市教育委員会が作成した「 福原長者原遺跡 関連遺跡図 」である。福原長者原遺跡の南東にある「 国府推定地(草場) 
こそ、継体が即位した「樟葉宮」跡と推測される。
 難波祝津宮に遷都し、それに従った物部大連尾輿等が新羅征討を下問され、大伴大連金村が継体の御世に任那の四縣を百済に譲った
ため、新羅がそれを恨み、新羅征討は難しい、と奏上した。このため、大伴金村は病と称して出仕しなかった。事実上の失脚である。

難波祝津宮」の難波の場所とは、継体天皇が即位した樟葉宮のあった「福原長者原遺跡 関連遺跡図」の場所である。この時、欽明
    天皇が、初めて歴代の天皇の中で行橋市方面に遷都された。そこへ蘇我氏が一緒に行っている。物部氏も一緒に行っている。だから、
    これは、倭(やまと)史=豊国史においては、重大な転機だった。これまでは、(やまと)=遠賀から田川の地域にかけてあった都が、行橋
    へ遷都する。ここに蘇我氏が活躍する舞台が開けていった。

二年春三月、次蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛堅鹽、此云岐拕志、生七男六女、其一曰大兄皇子
是爲橘豐日尊、其二曰磐隈皇女更名夢皇女、初侍祀於伊勢大神、後坐姧皇子茨城解、其三曰
臘嘴鳥皇子、其四曰豐御食炊屋姬尊、其五曰椀子皇子、其六曰大宅皇女、其七曰石上部皇子、
其八曰山背皇子、其九曰大伴皇女、其十曰櫻井皇子、其十一曰肩野皇女、其十二曰橘本稚皇子、
其十三曰舍人皇女。次堅鹽媛同母弟曰小姉君、生四男一女、其一曰茨城皇子、其二曰葛城皇子、
其三曰※1泥部穴穗部皇女、其四曰※2泥部穴穗部皇子更名天香子皇子。一書云、更名住迹皇子、其五曰
泊瀬部皇子

 大伴金村の失脚後、蘇我稲目は、娘の堅塩(きたし)小姉君を欽明の妃に納れる。①橘豐日尊がのちの用明天皇②豐御食炊屋姬尊が
のちの推古天皇
③泊瀬部皇子がのちの崇峻天皇である。※1泥部穴穗部皇女が通説に云う聖徳太子の母であり、※2泥部穴穗部皇子が
のちに馬子に殺された皇子
である。つまり、蘇我稲目は天皇家の外戚になった。このことが、欽明から孝徳天皇に至る間の都と陵、そして
蘇我稲目から入鹿に至る間の蘇我氏の邸宅と墓旧京都郡(みやこ町と行橋市)にあったことを推測させたのである。
 

 欽明天皇は在位中、任那の復興に努めた。百済の聖明王とは五四一年から任那の復興について協議し、百済を支援して高句麗と対峙した
が、戦況は百済側に不利であり、五五二年には百済が平壌と漢城を放棄した。さらに五五四年(欽明天皇一五年)に新羅との戦で、聖明王が
亡くなる
と新羅軍は勢いづき、終に五六二年(欽明天皇二三年)に任那を滅ぼしてしまう。これに激怒した欽明天皇は同年、新羅に討伐軍を
送るが、新羅の偽って白旗を挙げる(降服する)という罠にかかってしまい、倭軍は退却する。同年高句麗にも軍を送り、高句麗を破る。
大将軍大伴狭出彦は戦利品を天皇と蘇我稲目に献上している。  

 五七〇年(欽明天皇三一年)に蘇我稲目薨去。通説では、奈良県明日香村に六世紀後半に出現した方墳が稲目の墓ではないかとする。
ところが、みやこ町豊津地域北部、八景山南麓の標高約四〇mの丘陵上に 甲塚方墳 がある。
 みやこ町歴史民俗博物館の解説書から抄録する。

 甲塚方墳に埋葬された人物は、6世紀後半代になって京都平野南部を代表する立場になった首長と考えられます。墳丘の規模は長さ
約四六・五m、幅三六・四mで、高さは約九・五mをはかります。墳丘の周囲には浅い周溝が掘り込まれ、その外側には土を盛り上げた
周堤がめぐらされています。周溝・周堤を含めた甲塚方墳全体の規模は長さ約七二m・幅六三mに達します。石室は真南に入り口があり、
墓道・前室・玄室に分かれています。石室の全長は一五・四mで、もっとも
奥の玄室の天井は四・六mと非常に高いことが特徴です。石室に使われている
石材は大部分が花崗岩で、長さ二mを越える大きなものもあり、特に玄室の
奥壁に据えられている腰石は三・五mを越える巨大な石材で、重量は一〇tに
達するものと推測されます。」

この九州最大規模の方墳が、稲目の墓と思われる。
 翌五七一年、欽明天皇は、皇太子(のちの敏達天皇)に任那復興を託しながら
崩御した。欽明陵「檜隈坂合陵」は探索中である。
 なお、五五二年(欽明天皇一三年)に百済の聖明王が仏像と経文を献上した。
これによって、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿との間で対立がおこり、
人民が疫病で多数死んだことから、物部尾輿は仏像を難波の堀江(行橋市 流末 
より下流の今川)に投げ捨て
、稲目の建てたらしい伽藍を焼いた。これ以降、
物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。

 難波の堀江(行橋市流末より下流の今川)

「地図(行橋市流末)」