「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 神功天皇・征西(気比の宮~穴門豊浦宮)

 氣比神宮=気比の宮

 福永晋三先生の「 論文:東西五月行(統一倭国)の成立 」の18ページ鯷倭(しわ)の興亡に「神功天皇(神功皇后)
 の征西
」の以下の記述があります。

■ 気比の宮を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、 播磨の国を南下 、瀬戸内の海に
 出る。

■ 吉備の  鬼の城 温羅(うら)を滅ぼし、西進する。

■  牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に  穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し
 入城。

■ 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)が帰順。

■ 続いて伊都(いつ)県主の祖五十迹手(いそとて)が帰順。

 

※ 以下、「 氣長足姫尊の豊国北伐 」に続く。

※ 新説 日本書紀(第18回 神功皇后①) ・・・ YouTube動画は、  こちら です。
 (令和4年6月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より

氣比神宮

写真「氣比神宮」

氣比神宮・拝殿

写真「氣比神宮・拝殿」

角鹿神社

写真「角鹿神社
写真「角鹿神社

角鹿神社(祭神:都怒我阿羅斯等命)

画像「角鹿神社

※ 倭国大乱と卑弥呼
 (平成三〇年七月八日(日)、主催:田川広域観光協会、於:福岡県立大学大講義室)より

 額に角のある人が来たから角鹿(つぬが)(=敦賀)となった

198年、穴門(あなと)(関門海峡)に到った時、
  ()()都比古(つひこ)に会った。
   彼は『私がこの国の王だ。私以外に
  二人の王はいない。他所に行くな』と
  言ったが、私は王ではあるまいと思い、
  島々浦々を伝ってここ(角鹿)に来た」
  と答えた。
200年、額に角のある人が越国(こしのくに)(福井県)
  の笥飯(けひ)(気比)浦に停泊した。そこを
  角鹿(つぬが)(敦賀)と名付けた。
   「どこの国の人か」。「意富加羅(おほからの)
  の王の子、名は都怒我(つぬが)阿羅斯等(あらしと)
   日本国に聖王がいると聞いて、この
  国に来た。
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

 記紀によれば、198年穴門に至り、
200年に気
比に去った

とになる。
 卑弥呼共立
の年に都怒我
阿羅斯等は気
比神宮周辺に
到着した
 都怒我阿羅斯等大加羅国から崇神の
死ぬ直前に穴門に来た。
 崇神が亡くなって垂仁に三年仕えた後、
垂仁の元を離れ、日本海を東に遷り、
賀の気比
に到ったという話になる。
写真「敦賀市」
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
崇神天皇

 

 では、伊都
都比古
とは何
者か。
 私が飯塚の
王とした垂仁
天皇
に他なら
ない。
伊都(いつ)つ彦
だ。
 最初、穴門に来た都怒我阿羅斯等は3
年間どこにいたか。
 香春町高野にある鶴岡八幡神社である
ようだ。
写真「鶴岡八幡神社(香春町高野)」
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 

 東鯷国から倭国
への使者の話も垂
仁紀末尾にある。
 卑弥呼が、共立
された時から外交
政策を考えていた
なら、彼女は遠交
近攻策を採ってい
のではないか。
 その時、南の狗奴国と緊張関係にあった
卑弥呼が、後漢書に書かれた「東鯷(とうてい)国(近
畿にあった国)
」と友好関係を結ぶために、
密使として阿羅斯等を派遣したのではない
かと考えられる。
 都怒我阿羅斯等卑弥呼の側近だった可
能性もある。
四天王寺ワッソの都怒我阿羅斯等
「写真」
「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇

 

※ 宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2(第11回古代史講座)
 (令和元年六月二日(日)、主催:田川広域観光協会、於:田川青少年文化ホール)より

地図「播磨~若狭」

 氣比神宮内にある角鹿神社

写真「角鹿神社」

神功皇后の系図(古事記より)

古事記「神功皇后の系図」

 息長帯比売命が、神功皇后。父は、息長宿禰王。
母は、葛城高額比売。
 父息長宿禰王の先祖が、欠史八代の第九代開花天皇
である。
 母葛城高額比売の先祖をたどると、天之日矛になる。
 この人物が、どう考えても今日のメインテーマになる
都怒我阿羅斯等です。たぶんイコールです。
 神功皇后は、開花天皇と都怒我阿羅斯等の両方の血
受け継いでいる。
 この息長帯比売命が、気比の宮を出発して、豊国まで
やって来て、豊国(ヤマト国)の王族を倒して新しい
天皇として、この土地で即位されたというのが、私の
仮説です。

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