「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 赤間神宮/亀山八幡宮 = 穴門豊浦宮

※ 訂正
  穴門豊浦宮は、赤間神宮および隣の亀山八幡社としていますが、新たに  生野神社 を見つけられました。また、
 山口県防府市佐波に当てられている「周芳の沙麼の浦」は、北九州市東八幡区諏訪に鎮座する 枝光八幡宮 周辺と
 考えられています。

----- 以下、訂正前の内容 -----

 福永晋三先生の「 論文:東西五月行(統一倭国)の成立 」の18ページ鯷倭(しわ)の興亡に「神功天皇(神功皇后)
 の征西
」の以下の記述があります。

■  気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、 播磨の国を南下 、瀬戸内の海に
 出る。

■ 吉備の  鬼の城 温羅(うら)を滅ぼし、西進する。

■  牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に穴門豊浦宮(赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し
 入城。

■ 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)が帰順。

■ 続いて伊都(いつ)県主の祖五十迹手(いそとて)が帰順。

 

 『日本書紀 仲哀紀 二年』の記述

「画像(仲哀紀)」

 

※ 「 氣長足姫尊の豊国北伐 」に続く。

「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 ⇒ 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの『隋書』「俀国伝」に「東西
 五月行
」の記述があります。

『神功皇后の戦略(永井功著)』より主として筑豊関係の伝説から想定される「 神功皇后御行動図 」です。

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