「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 神功天皇・征西(気比の宮~穴門豊浦宮)

 鬼ノ城(きのじょう) = 温羅(うら)

 福永晋三先生の「 論文:東西五月行(統一倭国)の成立 」の18ページ鯷倭(しわ)の興亡に「神功天皇(神功皇后)
 の征西
」の以下の記述があります。

■  気比の宮 を発した神功天皇(神功皇后)は、海人族を従え、 播磨の国を南下 、瀬戸内の海に
 出る。

■ 吉備の鬼の城温羅(うら)を滅ぼし、西進する。

■  牛窓 でも新羅の王子を退治し、遂に  穴門豊浦宮 (赤間神宮および隣の亀山八幡社)を落し
 入城。

■ 邪馬台国の王の一人、岡県主の祖熊鰐(くまわに)が帰順。

■ 続いて伊都(いつ)県主の祖五十迹手(いそとて)が帰順。

 

※ 新説 日本書紀(第18回 神功皇后①) ・・・ YouTube動画は、  こちら です。
 (令和4年6月3日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より

Ⓒ不思議発見! コレナニ? 岡山「鬼ノ城のひみつ」

写真「鬼ノ城」

Ⓒ岡山県総社市

写真「鬼ノ城」

※ 新説 日本書紀(第19回 神功皇后②)
 (令和4年7月1日、担当:全国邪馬台国連絡協議会九州支部、会場:嘉麻市射手引神社上山田公会堂)より

鬼ノ城から水城状遺構を望む

写真「水城状遺構を望む」

 

 『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条
では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、
同書では北陸に派遣される大彦命、東海に
派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹
波道主命とともに「四道将軍」と総称され
ている。
 同書崇神天皇9月27日条によると、派
遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の
謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備
津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武
埴安彦命を討った。
 その後、四道将軍らは崇神天皇10年1
0月22日に出発し、崇神天皇11年4月
28日に平定を報告したという。
 吉備津彦と桃太郎(1/3)

 

 吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)
の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあ
たって温羅(うら・うんら・おんら)という鬼を討ったという
伝承が岡山県を中心として広く知られる。
 これによると、温羅は鬼ノ城に住んで地
域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼(いぬかい)(たけるの)(みこと)
()()(もり)(ひこの)(みこと)(とめ)(たま)(おみの)(みこと)という3人の
家来とともに討ち、その祟りを鎮めるため
に温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じた
という。
 この伝説は物語「桃太郎」のモチーフに
なったともいわれる。
 吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっ
ているほか、伝説に関連する吉備津神社の
鳴釜神事は上田秋成の『雨月物語』中の
「吉備津の釜」においても記されている。
 この伝承では、温羅は討伐される側の人
物として記述される。
 吉備津彦と桃太郎(2/3)

 

 しかし、吉備は「()(かね)吹く吉備」という
言葉にも見えるように古くから鉄の産地と
して知られることから、温羅は製鉄技術を
もたらして吉備を繁栄させた渡来人である
とする見方や、鉄文化を象徴する人物とす
る見方もある。
 また、吉備津神社の本来の祭神を温羅と
見る説もあり、その中でヤマト王権に吉備
が服属する以前の同社には吉備の祖神、す
なわち温羅が祀られていたとし、服属によ
り祭神がヤマト王権
系の吉備津彦命に入
れ替わったという説
もある。なお、吉備
津彦の三人の家来に
ついては別説に「犬
養縣主()」「猿女
君()」「鳥飼臣
)」という豪族
だという説もある。 
写真「吉備津神社」
 吉備津彦と桃太郎(3/3)

 

※ 以下、「 氣長足姫尊の豊国北伐 」に続く。

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