「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[119年 畝尾山(香春一ノ岳)の東南の橿原の地に邸宅建造
         ~ 121年(辛酉年)倭国=邪馬台国創始]

<119年(己未年)>

神武東征と魏志倭人伝
一一九
 春二月、「諸將に命じて士卒を
  (えら)ぶ」。倭奴国の残存勢力を
  掃討する。
 三月、畝傍山(香春一ノ岳)の
  東南の橿原の地に帝宅
の建造
  を命じる。

 この後、鞍手郡誌(射手引神社
 社伝)によれば、神武は一旦、
 宝満山すなわち筑紫に陸路で凱
 旋
する。

 

<120年(庚申年)~121年(辛酉年)>

神武東征と魏志倭人伝
一二〇
 秋八月、香春に戻って来た神武
  は、正妃を娶る。

 九月、「媛蹈韛五十鈴媛命を(めしい)
  れて、以て正妃と爲す」
  天神の血統を入れる婚姻であ
  る。
一二一
 「辛酉年の春正月の庚辰朔に、   
  天皇、橿原宮に於いて帝位に   
  即きたまふ。」
倭国=邪馬台(やまと)国創始

 

 福永晋三先生のタイトル「邪馬臺国の位置と年表」の資料 「 邪馬臺国の位置と年表改訂版 」の
 8ページに「倭国=邪馬台国創始」後の下記の記述があります。

 二月、論功行賞。「頭八咫烏、亦賞の例に入る。」求菩提山・英彦山から彦山川水系に沿って、今日の
田川郡赤村より「 烏尾峠 」辺りまでの「 飛ぶ鳥の明日香 」の地の領有を認められたらしい。

以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より

 己未年(一一九年)の春二月に倭奴国の残存勢力の掃討戦が展開されたようである。中洲の皇都陥落に
集中する作戦が成就し、次いで、皇都の周囲を制圧する様は、頭八咫烏一族を始めとする数々の道案内と
作戦にあったことをうかがわせるに十分である。
 したがって、この段落に現れる土蜘蛛の居所は、すべて現在の福岡県筑豊地方の周辺と考えられる。
これらのうち、「葛城」は『鞍手町史』の一節によって、その候補地が推定できるようになった。
「新北神話の宗像三女神の六ヶ岳降臨とも結びつくが、主体は日本武尊伝説である。亀甲の熱田神社の
古宮や新延の剣神社及び鎧塚伝説等は、すべて日本武尊に関連づけられている。
 このことは中山の八剣神社、木月及び古門の剣神社伝説も同様である。その意味では新北神話は即ち
鞍手神話ともいえる。
    (中略)

  香月文書 によると畑城主香月氏の神話伝説に次のようにある。
 小狹田彦の孫小磐削ノ御剣王は日本武尊と小狹田彦の娘常磐津姫の間に生まれた人である。父君の
日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。
 その賞として祖父景行天皇より武部ノ臣の称を頂いたほどである。御剣王は帰国後『兎角に父の尊の
慕わしくて、尺の岳及び新北尊の戦勝を祈り玉ひし地なりに尊を祭り玉ひ云々
』とある。」

 「御剣王の御子天ノ磐代武部ノ種日子王は父に劣らぬ武勇の人であったが、『御子磐木那賀ノ王を
嘉麻の碓井の邑主となし、御子天賀那川彦ノ王を新北の神主となし、御子津々賀御ノ王を舞岳(尺岳)
日本武尊小狹田彦御剣王合祀の神主となし、御子御木ノ王を穂波の郡司となし、御子山戸部ノ王を聞
(企救)の司となし、御弟羽羽戸部ノ王を高羽(田川)の主とし、御弟八ッ大戸部の王を暗崎(黒崎)
の村主となし玉ふ
』云々とある。」

 上は神武のかなり後の日本武尊の伝承である。これも記紀の伝承とは相容れないが、「香月文書」に
関わる「香月氏」は、神功紀に出て
来る「葛城襲津彦」の末裔である。
 神武紀の「葛城」、神功紀の「葛城襲津彦」、中世の畑城主「香月氏」が時代を貫いて同じ地に
現れる時、神武紀の「葛城」もあるいは今日の鞍手町「香月」とその周辺ではないかと思われる。

 「或の曰く、天皇往嚴瓮の粮を嘗りたまひて、軍を出だして西征したまふ。」
 「(天皇曰く)我東を征ちしより、茲に六年になりにたり。」

 神武に現れる「西征」については、未だ嘗て誰一人註をつけた者はいなかった。神武の第二次東征は
宇佐へ大迂回をし、中洲の皇都を西に向かって討つ「神策」であった。
 この段落に於ける、一見すると「神武東征」の主題と矛盾する「西征」の表現にこそ、神武東征の
史実が示されていた。
 通説の近畿大和への東征では、熊野(新宮市)再上陸から大和への行程はむしろ「北征」と呼ぶべきで、
筑豊コースと比較すると、「日を背にした」具体的な戦い及び進軍の経由地はおよそ比定しようがない
ほど伝承にとぼしいのである。