「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 邪馬臺(やまと)國 = ( やまと)国 年表(豊国史)

[243年(正始四年) ~ 266年(泰始二年)]

<243年(正始4年)~ 255年?>

魏志倭人伝
二四三  卑弥呼、大夫伊聲耆・掖邪狗等
  八人を遣使
二四五  正始六年、詔賜倭難升米黃幢、
  付郡假授
二四七 邪馬台国狗奴国と交戦。
  正始八年、太守王頎到官。倭女王卑
  彌呼
狗奴國男王卑彌弓呼素不和、
  遣倭載斯・烏越等詣郡說相攻擊狀遣
  塞曹掾史張政等。因齎詔書・黃幢、
  拜假難升米為檄告之
二四八 卑弥呼死去。
  卑彌呼以死、大作塚、徑百餘步。
二四九 ~ 二五五? 再び倭国乱る。
  更立男王、國中不服、更相誅殺、當
  時殺千餘人。

*.245年 「難升米に黄幢を授けた。」というのを大きな謎である。

 

<『翰苑』 魏略の「火国」の記述>

夏后少康之子は、越王勾践の祖。
 魏志は、そのまま残した。
呉の太伯は「姫氏」。 夫差の祖。  
 魏志は、この記述をカットした。
 魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有
奴 國
, 女 男 子 為 王 , 其 官 曰
右(古)智 卑 狗
, 不 屬 女 王 也 .
自 帶 方 至 女 國 万 二 千 餘 里 .其
俗 男 子 皆 點 而 面 文 . 聞其 舊 語 ,
自 謂 太 伯 之 後
昔 夏 后 少 康 之 子 封 於 會 稽
斷 髮 文 身 以 避 蛟 龍 之 吾 (害).
倭 人 亦 文 身 以 厭 水 害.
文身點面猶稱太伯之苗
『魏略』中の火国の記録

*.247年 「狗奴国の男王卑弥弓呼」は、『翰苑 魏略』では、拘右(古)智卑狗 と記されている。
  248年 「卑弥呼以死」は、『三国志』に記されてあるすべての以死の表現を分析したら、何らかの
 罪が与えられて自決させられた場合に使われる表現だそうである。
  卑弥呼は、自然死では無く、自決に追いやられた。狗奴国と交戦した後に魏に冊封する国の王に
 与えられると思われる黄幢が、卑弥呼の使者であった難升米に与えられた。
  卑弥呼は、王の資格を失う訳である。何故か? 原因は一つしかない。それは狗奴国に敗れたらしい。
 その敗れた責任を取らされる。
  だから、「卑弥呼以死」と記されている。その 卑弥呼の墓 は、田川にありそうである。

 

<266年(泰始二年)薹與(トヨ)即位 >

魏志倭人伝
二六六 臺與(とよ)即位、晋に遣使。
  復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國
  中遂定。獻上男女生口三十人、貢白珠
  五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十
  匹。政等以檄告壹與、壹與遣倭大夫率
  善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因
  詣臺
(南宋 紹煕本)
※「臺與」と書かれていたものが、『南宋
 紹煕本』では、「壹與」。

*.266年 與即位であり、(いちよ)では無い。『 謝承後漢書(翰苑) 』に「卑弥呼」と「臺與」の
 記事があり、のちに書かれた『魏志倭人伝』が、最初の史書では無い。