「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 壬申の乱の舞台 糸田の「泌泉」は天智天皇の「漏刻」跡だった
(平成28年11月27日、於 糸田町文化会館)の講演より
■ 大友金村の業績
仁賢天皇十一年(四九八年)、仁賢天皇の崩御後に大臣・平群真鳥、鮪(しび)
父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。
武烈天皇八年(五〇六年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の
玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明
の各天皇に仕えた。
大伴金村 『前賢故実』より
大伴金村は、実在の人物である。当然、豊前に居ました。
上記の通説では、越前国からとあるが、これが間違っている。継体天皇も近江の
出身者である。この近江も古遠賀湾のある豊前である。『日本書紀 継体紀』に
近江国に生まれると記してある。
天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色、自近江國高嶋郡三尾之別業、
遣使聘于三國坂中井中、此云那、納以爲妃、遂産天皇。
継体天皇の宮
五〇七年二月、樟葉宮 (くすばのみや) で即位
五一一年十月、筒城宮 (つつきのみや) に遷す。
五一八年三月、弟国宮 (おとくにのみや) に遷す。
五二六年九月、磐余玉穂宮 (いわれのたまほのみや) に遷す。
※ 右叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もあるが、
憶測の域を出ない。
ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは
最後の5年のみである。
継体天皇が、最後に都を遷したのが、磐余玉穂宮である。稲荷神社が鎮座している山が玉穂山である。
この稲荷神社こそが、継体天皇の宮の跡であろう。
敷島の地名からここは、欽明天皇の磯城金刺宮の跡かも知れない。継体天皇の宮と同じ場所かも
知れない。
<ご参考>
『日本書紀』 継体天皇二十年の記事、遷りて磐余の玉穂に都す。
廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。
『古事記』 継体天皇の玉穂宮の記事
袁本杼命、坐伊波禮之玉穗宮、治天下也。
※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より
「 天皇家と蘇我氏の歴史① 継体天皇 」 より
国府推定地(草場)にある官幣大社である豊日別宮( 草場神社 )が、樟葉宮(くすばのみや)で即位したらしい。
<所在地のGoogelマップ>
*.鳥居前より香春岳(倭三山)を望む