「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

三、豊君としての天智天皇

 ①孝徳天皇の悲劇

 皇極天皇四(六四五)年六月十二日に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して
 軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して吉野山に出家した。  
 十四日の内に、皇極天皇から譲位を受け、軽皇子は即位した。皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を
 皇太子とした。阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。
 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(行橋市長井浜附近か)を造営し、そこを都と定めた。白雉四年(六五三)に、中大兄は天皇に倭京に遷る
 ことを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と間人皇后、皇弟等を連れて倭飛鳥河辺(かわら)行宮に赴いた。 臣下の大半が
 皇太子に随って遷った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって崩御した。

(白雉五年、六五四) 十二月の壬寅の朔己酉に、大坂磯長陵に葬りまつる。是の日に、皇太子、皇祖母尊を
奉りて、倭河邊行宮(やまとのかはらのかりみや)に遷り居したまふ。

 旧京都郡に都を置いた孝徳天皇に対し、中大兄は旧田川郡の倭京に遷ることを求め、結局、孝徳天皇を見捨てるようにして倭京に遷る。
 倭飛鳥河辺行宮とは父舒明天皇の飛鳥岡本宮のことであろうか。孝徳天皇の崩御後に「倭河邊行宮」に遷った。「かはらのかりみや」が
 ひょっとすると、「香春の宇治宮(  阿曽隈社 )」かも知れない。

 結局、天智の称制」とは、難波(旧京都郡)の孝徳天皇をないがしろにして、自ら倭(旧田川郡)の地に天皇として即位したことを
 非難した表現ではないだろうか。
 「豊前国旧記の天智元年」=「日本書紀の斉明元年」とすることから孝徳紀・斉明紀の解読が始まった。

 香春町古宮ヶ鼻

「地図」

 倭河邊行宮=宇治宮(上権様:阿曽隅社)

「写真」