「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より
三、豊君としての天智天皇
③豊君天智天皇の業績
漏刻の建造についてはもはや述べた。次の大業績も実は天智天皇のものだった。
(斉明天皇二年、六五六)是歳、飛鳥の岡本に、更に宮地を定む。時に、高麗・百濟・新羅、並びに使を遣して、
調進す。爲に紺の幕を此の宮地に張りて、饗す。遂に宮室を起つ。天皇、乃ち遷りたまふ。號けて後飛鳥
岡本宮と曰ふ。田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。田身は山の名なり。此をば大務と云ふ。復、
嶺の上の両つの槻の樹の邊に、觀を起つ。號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。時に興事(おこしつくること)を
好む。廼(すなは)ち水工(みづたくみ)をして渠(みぞ)穿(ほ)らしむ。香山(かぐやま)の西より、石上山(いそかみのやま)に
至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載(つ)みて、流(みづ)の順(まま)に控引(ひ)き、宮の東の山に石を
累(かさ)ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「狂心(たぶれごころ)の渠。功夫(ひとちから)を損(おと)し費やすこと、
三萬餘。垣造る功夫を費やし損すこと、七萬餘。宮材(みやのき)爛(ただ)れ、山椒(やまのすゑ)埋れたり」といふ。
(中略)又、吉野宮を作る。
後飛鳥岡本宮(赤村岡本 光明八幡神社 )に遷ったのも実は天智天皇であったらしい。父舒明天皇の
宮の地に入ったのであろう。香春の宮原盆地の地下を流れる水路( 狂心の渠 )を作ったのも天智天皇。
宇治宮( 阿曽隈社 )の東の垣( 呉中平雪穴 )を造ったのも天智天皇。吉野宮(山国町の 若宮八幡 )を
作ったのも天智天皇。和同開珎(銅銭)を造ったのも天智天皇。豊君の偉大な業績が斉明紀には記して
あるようだ。
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつゝ
天智天皇
【新解釈】
秋の田の稲穂を刈り、その藁を苫に編み、仮廬のようなわが宮殿の屋根を葺くが、苫の目が粗いので時々、
わが袖は漏れ来る雨露に濡れることだ。それでも、朕は民の暮らしが豊かならんことを願う。
【新考】
「王道の御述懐の歌」および「農民の辛苦を思いやられた聖帝の歌」との解釈は正しいと思われる。「秋の田のかりほの庵」は
万葉集七番歌の「金(あき)の野のみ草刈り葺き」たる「仮廬」の本歌取りともいうべき手法であろう。「農事のために稲田の
ほとりに作った仮小屋」ではあるまい。「とまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ」とは、やはり、宇治天皇の「宮垣
崩るれども造らず、茅茨壊るれども葺かず。風雨隙に入りて、衣(おほみそ)被(おほみふすま)を沾(うるほ)す。
星辰壞(やれま)より漏りて、床(みゆか)蓐(みましき)を露にす。」を下敷きにして、「天皇自らの衣手(袖)が雨露に濡れて
いる」ことを詠っているようだ。したがって、天智天皇があるいは、宇治天皇の王道政治を偲ばれて、宇治天皇に仮託して詠んだ歌とも
解される。
豊後の火山活動のせいで、地表の水が毒水と化した時、人民の為に宮原盆地の地下に水路(吹き出し)を造られた。正に宇治天皇と同じ
宇治の宮(阿曽隈社)で王道政治を実践された。阿曽隈社を香春の人は「上權(じょうごん)様」とお呼びする。
和同開珎
斉明(天智)二年(六五六)
銅銭の銅は、倭国東朝(豊国)
の香春三ノ岳(天香山)の銅。
鋳銭寺がないか?