「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より
四、白村江戦前夜から壬申の乱まで
■ 壬申の乱後
8月25日
八月庚申朔甲申、命高市皇子宣近江群臣犯状。則重罪八人坐極刑、仍斬右大臣中臣連金於淺井田根。
是日、左大臣蘇我臣赤兄・大納言巨勢臣比等及子孫、并中臣連金之子・蘇我臣果安之子、悉配流。
以餘悉赦之。
・高市皇子、近江の群臣の罪状を宣告。 重罪8人を死刑。右大臣中臣連金を浅井の田根にて斬る。左大臣蘇我臣赤兄・
大納言巨勢臣比等、および子孫、中臣連金の子、蘇我臣果安の子を配流。その他はすべて赦す。
これ以前に、尾張國司守少子部連鉏鉤は山に匿れて自死。
8月27日 ・有功者たちを賞め、寵を与える。
9月8日 ・車駕帰還の途につかれる。伊勢の桑名に宿り給う。
9月9日 ・鈴鹿に宿り給う。
9月10日 ・阿閉に宿り給う。
9月11日 ・名張に宿り給う。
9月12日 ・倭京に到り、嶋宮(大任町 島台 )に御す。
9月15日 ・嶋宮より岡本宮(赤村 光明八幡神社 )に移る。
天武天皇元年(六七二年)
是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。
是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。
※ 飛鳥浄御原宮を田川郡赤村 大原 の貴船神社の地に比定。
天皇賜藤原夫人御歌一首 (天皇は天武天皇)
(一〇三)
吾が里に 大雪ふれり 大原の 古りにし里に ふらまくは後
わたしの居る里(新京、後の藤原京=福原長者原遺跡か)には大雪が降っている。
そなたの里の大原の旧都(飛鳥浄御原宮)に雪が降るのはまだ後だろう。
(福永の新解釈)
藤原夫人奉和歌一首 (藤原夫人は鎌足の娘、字は大原大刀自(おおはらのおおとじ))
(一〇四)
吾が岡の おかみに云ひて ふらしめし 雪のくだけし そこに散りけむ
わたくしの里の大原の闇龗(くらおかみ)(龍神)に云いつけてふらせました雪の砕けましたのが、そこのあたりに散ったので
ございましょう。大原の里に先に降りましたよ。(福永の新解釈)
天武天皇八年(六八〇年)
※ 天武天皇は壬申の乱後に、吉野宮(山国町 若宮神社 )で皇后と六人の皇子に「不戦の盟い」をさせる。
五月庚辰朔甲申、幸二于吉野宮一。乙酉、天皇、詔二皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・
河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子一曰「朕、今日與二汝等一倶盟二于庭一而千歲之後欲レ無レ事、奈之何。」
皇子等共對曰、「理實灼然。」則草壁皇子尊、先進盟曰、
「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼并十餘王、各出二于異腹一、
然不レ別二同異一、倶隨二天皇勅一而相扶無レ忤。若自レ今以後、
不レ如二此盟一者、身命亡之子孫絶之。非レ忘非レ失矣。」
五皇子、以レ次相盟如レ先。然後、天皇曰、「朕男等各異腹而生、
然今如二一母同産一慈之。」則披レ襟抱二其六皇子一。因以盟曰
「若違二茲盟一、忽亡二朕身一。」皇后之盟、且如二天皇一。丙戌、
車駕還レ宮。己丑、六皇子共拜二天皇於大殿前一。
天皇、吉野宮に幸しし時の御製歌
(二七)
淑(よ)き人の良しと吉く見て好しと言ひし芳野吉く見よ良き人よく見
(淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三)
天武天皇十五年(六八六年)
六月の戊寅(十日)に、天皇の病を卜ふに、草薙劒に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く。
朱鳥元年(六八六年)
九月丙午(九日)に、天皇の病、遂に差えずして、正宮に崩りましぬ。
以上をまとめると、壬申の乱は、確実に、「最後の豊国北伐」である。万が一、天智天皇の死が 織幡神社 突端の岬からの
入水自殺の結果であれば、壬申の乱は天智天皇と大海人皇子=筑紫君薩野馬との直接の争いであった可能性が高い。
勝利した天武が三種の神器の中心である草薙の剣に祟られて病死する 様は、日本書紀中最も特筆大書されるべきであろう。