「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より
本章 記紀から解く魏志倭人伝 ③垂仁天皇紀
■ 狗奴国の戦いで敗れた卑弥呼の死の原因と卑弥呼の墓
卑弥呼は、狗奴国(熊本県菊池)と戦った。その狗奴国の王の名前は、卑弥呼と一文字違いの卑弥弓呼(ひみくこ)で
ある。卑弥弓呼に「弓」の字が入っているように、鉄鏃(てつぞく)、弥生時代の鉄製の「やじり」が福岡県・熊本県・
大分県でいっぱい出土している。
甕棺(かめかん)と箱式石棺の差から考えて、豊国が倭国(邪馬台国)で火国(菊池)が狗奴国ではないだろうか。
豊国(倭国)と火国(狗奴国)は、戦った。男王の卑弥弓呼は、「弓」の字が入っているから、弓矢戦は狗奴国(火国)の
方が強かったのではないだろうか。それで、卑弥呼は、負けたようである。だから、卑弥呼は、自決同然の形で死んで
いったのではないだろうか。
『魏志倭人伝』よい前に書かれた『魏略』という本に、「狗奴國」の記述があり、その後に倭人の事が書かれている。
①の赤字と②緑字で書き分けたように、①が狗奴國、②が倭人の記録である。
①の狗奴國の人は、「太伯之後」とあるように先祖が、呉の太伯である。呉越の戦いで敗れた呉王の夫差を先祖と
する人々が熊本県 菊池・山鹿 (狗奴国)に住んでいる。これは、卑弥呼と同時代の話である。
②に書いてある「昔夏后少康之子封於會稽」は、紀元前473年頃に勝った側の越王勾践の先祖である。この越の人は、
「斷髮文身」(入れ墨して)、「蛟龍」(鮫か何か)の害を避ける。今、倭の人も入れ墨して水害を避けると書かれている。
①の6文字「自謂太伯之後」を除いて、『魏志倭人伝』に書かれている。遠賀川流域の人々(倭人)は、越の子孫である。
紀元前の呉越の戦いが、北九州と中九州で起きているという考え方も出来る。
卑弥呼の時代の火国は、肥前・筑後・肥後の範囲である。したがって、魏の遣いが、肥前国の松浦県に来る訳が
無いでしょ。通説の学者は、地図に示すように倭国(邪馬台国)と敵対関係にある狗奴国である位置にあることも
考慮に入れていない。
魏使が、敵国に来ますか?末廬国は、豊国の端の筑前(筑紫の末羅の縣)、宗像でしょ。そこから陸路で田川にくる。
そこが、倭(邪馬台)国である。
狗奴国の卑弥弓呼に敗れたか何かで、卑弥呼は死んでいく。その墓について『魏志倭人伝』に書かれている。
その墓の大きさは、「直径百余歩」とあるので、
①神武天皇紀 で説明した「里」と同じであるから、140m~
150mである。
田川にそのような大きな墓(古墳)があるのかと不安に思っていたが、 赤村内田 に巨大な前方後円墳(型地形)が
あった。
昔の写真で、堀の跡が見えている。大阪府堺市にある大仙古墳に次ぐ日本で2番目に大きな前方後円墳が田川に
ある。
上記の『魏志倭人伝』にある通り、卑弥呼の墓は殉葬墓である。埴輪は埋めていない。生きた人をそのまま埋める。
惨い埋葬の方法である。『日本書紀 垂仁紀』に書かれているように惨い殉葬は、止めるように言ったとあり、それで、
埴輪を作ったと書いてある。
奈良県の箸墓からは、埴輪が出土されている。したがって、奈良県の箸墓は、絶対に卑弥呼の墓で無い事が
わかる。