「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 宗像が末廬国なら邪馬台国は田川だ2

※ 第11回古代史講座 古代田川を解き明かす
  宗像が末盧国なら邪馬台国は田川だ2 (令和元年六月二日、於 田川青少年文化ホール)より

本章 記紀から解く魏志倭人伝  ③垂仁天皇紀

■ 狗奴国の戦いで敗れた卑弥呼の死の原因と卑弥呼の墓

卑弥呼の死因か
魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有 狗 奴
, (女) 男 子 為 王 , 其 官 曰
拘 右 智 卑 狗 , 不 屬 女 王 也.
 その南、狗奴国有り。男子王たり。その
官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。
 其の(正始)八年(247)、太守、王
頎官に到る。
 倭女王卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼素より
和せず。
 倭、載烏越等を遣わし、郡に詣り、相攻
撃する状を説く。
 塞曹掾史、張政等を遣わし、因って詔書、
黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為(つく)
りて之を告諭す。

 卑弥呼は、狗奴国(熊本県菊池)と戦った。その狗奴国の王の名前は、卑弥呼と一文字違いの卑弥弓呼(ひみくこ)
ある。卑弥弓呼に「」の字が入っているように、鉄鏃(てつぞく)、弥生時代の鉄製の「やじり」が福岡県・熊本県・
大分県でいっぱい出土している。
 甕棺(かめかん)と箱式石棺の差から考えて、豊国が倭国(邪馬台国)で火国(菊池)が狗奴国ではないだろうか。
 豊国(倭国)と火国(狗奴国)は、戦った。男王の卑弥弓呼は、「弓」の字が入っているから、弓矢戦は狗奴国(火国)の
方が強かったのではないだろうか。それで、卑弥呼は、負けたようである。だから、卑弥呼は、自決同然の形で死んで
いったのではないだろうか。

 

『魏略』中の狗奴国倭国
文身點面猶稱太伯之苗
 魏 略 曰 , 女 王 之 南 , 又 有 狗 奴 國
女 男 子 為 王 , 其 官 曰 拘 右 智 卑 狗
不 屬 女 王 也 .( 自 帶 方 至 女 國 万 二
千 餘 里 .其 俗 男 子 皆 點 而 面 文 .)

其 舊 語 , 自 謂 太 伯 之 後
② 昔 夏 后 少 康 之 子 封 於 會 稽斷 髮
文 身
以 避 蛟 龍 之 吾 . 今 倭 人 亦 文 身
以 厭 水 害.
① 呉の太伯は「姫氏」。呉王夫差の祖
 狗奴国は菊池川流域の菊鹿盆地
 
② 夏后少康之子越王勾践の祖
 倭人(倭国)遠賀川流域

 『魏志倭人伝』よい前に書かれた『魏略』という本に、「狗奴國」の記述があり、その後に倭人の事が書かれている。
①の赤字と②緑字で書き分けたように、①が狗奴國、②が倭人の記録である。
 ①の狗奴國の人は、「太伯之後」とあるように先祖が、呉の太伯である。呉越の戦いで敗れた呉王の夫差を先祖と
する人々が熊本県  菊池・山鹿 (狗奴国)に住んでいる。これは、卑弥呼と同時代の話である。
 ②に書いてある「昔夏后少康之子封於會稽」は、紀元前473年頃に勝った側の越王勾践の先祖である。この越の人は、
「斷髮文身」(入れ墨して)、「蛟龍」(鮫か何か)の害を避ける。今、倭の人も入れ墨して水害を避けると書かれている。
 ①の6文字「自謂太伯之後」を除いて、『魏志倭人伝』に書かれている。遠賀川流域の人々(倭人)は、越の子孫である
 紀元前の呉越の戦いが、北九州と中九州で起きているという考え方も出来る。

 

卑弥呼の時代の
  豊国(筑前・豊前・豊後)
  火国(肥前・筑後・肥後)
7世紀の九州(九国)
九州「七県・九国」の地図

 卑弥呼の時代の火国は、肥前・筑後・肥後の範囲である。したがって、魏の遣いが、肥前国の松浦県に来る訳が
無い
でしょ。通説の学者は、地図に示すように倭国(邪馬台国)と敵対関係にある狗奴国である位置にあることも
考慮に入れていない。
 魏使が、敵国に来ますか?末廬国は、豊国の端の筑前(筑紫の末羅の縣)、宗像でしょ。そこから陸路で田川にくる。
そこが、倭(邪馬台)国である。

 

※ 田川郡内に発見されれば、福永説が
 確定する。
※ 神武の橿原宮(香春町高野)と畝傍
 東北陵(おほきんさん)のようにか
 なり近い。
直径百余歩=一四〇m~一五〇m
版本『魏志倭人伝』「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」
卑弥呼の墓
吉野ヶ里以上の環濠集落
香春から遠くない位置
女王国
卑弥呼の墓(田川郡)

 狗奴国の卑弥弓呼に敗れたか何かで、卑弥呼は死んでいく。その墓について『魏志倭人伝』に書かれている。
 その墓の大きさは、「直径百余歩」とあるので、  ①神武天皇紀 で説明した「」と同じであるから、140m~
150mである。

 

Google Earth「赤村内田の前方後円型地形」
謎の巨大前方後円型地形

 田川にそのような大きな墓(古墳)があるのかと不安に思っていたが、  赤村内田 に巨大な前方後円墳(型地形)
あった。

 

1970年代の航空写真「赤村内田の前方後円型地形」
謎の巨大前方後円型地形

 昔の写真で、堀の跡が見えている。大阪府堺市にある大仙古墳に次ぐ日本で2番目に大きな前方後円墳が田川に
ある。

 

「新説 日本書紀」 福永晋三と往く
垂仁天皇
 239年、天皇の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が死んだ。
 この時、「近習の者を集め、すべて生き
たまま陵の周囲に埋めて立てた
」とある。
 日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声
をあげて泣いた。ついに死ぬと、遺体が腐
り、犬や烏が集まって遺体を食べた。
 天皇は、これを悲しみ、以後殉葬を止め
よと言った。
 『魏志倭人伝』に卑弥呼の墓が記され、
殉葬する者奴婢(ぬひ)百余人なり」とある。
 『垂仁紀』の記事がこれに該当すること
は明らかである。

 上記の『魏志倭人伝』にある通り、卑弥呼の墓は殉葬墓である。埴輪は埋めていない。生きた人をそのまま埋める。
惨い埋葬の方法である。『日本書紀 垂仁紀』に書かれているように惨い殉葬は、止めるように言ったとあり、それで、
埴輪を作ったと書いてある。

 

奈良県箸墓は
   卑弥呼の墓ではない
 この時期には埴輪列はまだ存在していない
が、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特
殊壺
、最古の埴輪である都月型円筒埴輪など
が採集され
ており、こ
れらが墳丘
上に置かれ
ていたこと
は間違いな
い。
(ウィキペ
ディア)
奈良県箸墓出土の埴輪

 奈良県の箸墓からは、埴輪が出土されている。したがって、奈良県の箸墓は、絶対に卑弥呼の墓で無い事が
わかる。