「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 流末(りゅうまつ)、難波の堀江 =『日本書紀 仁徳紀』の記述の地

 「 赤村:飛鳥川」の河川争奪が原因で川の流れが変わり、今川になった為に川の水が海に流れないで「流末」の付近で水が溜まったので工事をした時の記述であろう。今川の河川争奪の時期は、この頃ではないか?

「画像(仁徳紀』十一年の記事)」

 「飛鳥川」の和歌については、  こちら  をご参照下さい。

 また、古事記の『仁徳天皇・矢田若郎女』の記述にある「堀江に泝り」から推測すると、現在の今川の辺に「崎野神社」が見える。
 そこから南の方にある「流末」と「  崎野神社 」の間を真っ直ぐ北に流れる今川こそが、仁徳紀に書かれた「堀江」と思われるので、「崎野神社」の 辺りが「御津前」と考えられる。

※  聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた
 (平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より

 五五二年( 欽明天皇 一三年)に百済の聖明王が仏像と経文を献上した。これによって、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿との間で対立がおこり、人民が疫病で多数死んだことから、物部尾輿は仏像を難波の堀江(行橋市流末より下流の今川)に投げ捨て、稲目の建てたらしい伽藍を焼いた。これ以降、物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。

  敏達天皇 一四年(五八五)に物部守屋と中臣勝海が天皇に 奏上し、仏教禁止の勅を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。焼いた仏像の残りの仏像はまたも難波の堀江(今川)に棄てさせた。

<所在地マップ>

「地図(行橋市流末)」