「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


 「壬申の乱」のあらまし

※ 壬申の乱のあらまし(平成29年11月18日、於 赤村村民センター)講演より

一 舒明・皇極(蘇我氏の滅亡)

 ■ 天豐財重日足姬天皇(皇極天皇 在位六四二~六四五)紀

 即位前紀から始まる。

天豐財重日重日、此云伊柯之比。足姬天皇、渟中倉太珠敷天皇曾孫、押坂彥人大兄皇子孫、茅渟王女也。
母曰吉備姬王。天皇順考古道、而爲政也。息長足日廣額天皇二年、立爲皇后。十三年十月、息長足
日廣額天皇崩。
元年春正月丁巳朔辛未、皇后卽天皇位。以蘇我臣蝦夷爲大臣如故。大臣兒入鹿更名鞍作。自執國政。
威勝於父。

 蘇我蝦夷が大臣のままで、入鹿が国政を執り、父よりも勢いが勝っていた

 元年(六四二)  一月 十五日  即位。

 元年(六四二)  一月二十九日  安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。(倭国本朝)

 元年(六四二)  四月  八日  追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来朝。(倭国本朝)

 元年(六四二) 十二月二十一日  小墾田宮(所在不明)に遷る。

 二年(六四三)  四月二十八日  更に飛鳥板蓋宮  福原長者原遺跡 )に遷る

 二年(六四三) 十一月  一日  蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、同月十一日に王は自害

 三年(六四四) 十一月      蝦夷・入鹿、家を甘樫丘(みやこ町と行橋市の境の 馬ヶ岳、中世の城跡 の基か)に並べ建つ

 四年(六四五)  六月 十二日  中大兄皇子らが飛鳥板蓋宮大極殿内で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する。
                  乙巳の変

 四年(六四五)  六月 十四日  皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。

於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、(中略) 佐伯連子麻呂・稚犬養連網田
斬入鹿臣

※ 大極殿十二門には、飛鳥板蓋宮での入鹿誅伐のとき、十二門を守り、かつ誅伐に参加した氏族の功を永久に記念するために氏族名を
  付けたとの説がある。
  佐伯連子麻呂・稚犬養連網田・海犬養連勝麻呂三人の氏族名は、十二門中に藻壁門(佐伯)・皇嘉門(若犬養)・安嘉門(海犬養)
  して遺されている。

己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記・國記・珍寶。 船史惠尺、卽疾取所燒國記而奉獻中大兄。
是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍、許葬於墓、復許哭泣。

 推古期に録された「天皇記・國記」が焼かれている。「国造記」は無事だったのか、現存する『先代旧事本紀』に残されている
 また、蝦夷と入鹿は墓に葬ることを許されている。
 二人の墓は皇極元年に「是歲、(中略)又盡發舉國之民、幷百八十部曲、 預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。
一曰小陵、爲入鹿臣墓。」
とある。
 生前に「(ならび)の墓」を築いたとあり、みやこ町の  三ツ塚古墳 がどうやらそれらしい。三基中、一基しか残っていないが、
 石室古墳である。だが巨大な石壁が壊されてどこかに運び去られた ようだ。発掘に当たったみやこ町の調査員の方も、石材目的の
 盗掘であろうと推測されている。