「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
■ 竈門神社は、別称を「宝満宮」「竈門宮」。主祭神は、 玉依姫命 。玉依姫は、ウガヤフ
キアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、五瀬命、稲飯命、御毛沼命、若御毛沼命
の四子をを産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命、後の神武天皇)となる。
※ 114年~115年の神武東征(第一次東征)の説明は、 こちら
※ 五瀬命が死去し、竈山に葬るは、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の115年 五月です。
以下、『越境としての古代[6]』の「神武は、筑豊に東征した」より
そして、戦病死した五瀬命を紀の国の竈山に葬った。この竈山は、竈門神社の鎮座する太宰府の宝満山(三笠山、竈門山)を指すようである。「竈」は一字でも「かまど」と読む。
「紀の国」も景行紀に「御紀国」、神功・応神紀に「貴国」、私の抽出した「 水沼の皇都 」付近に「基山」もあり、「紀角宿禰」のように「紀氏」も存在したことから、筑後平野一帯と考えてよいだろう。
竈門神社の由緒には、
「祭神玉依姫命は海神の御女であり、鵜葺草葺不合命の后、そして神武天皇の母君である。」 に始まり、次の神武の故事がある。
「神武天皇皇都を中州に定めんと途に上らせ給ふに及び天皇は諸皇子と共に此の山に登り給ひて、躬親から御胸鏡を榊木の枝に取り掛け嚴の太玉串を刺立て建國の大偉業を告申して御加護を御祈り給ひぬ、されば天皇の大偉業は玉依姫神の御教化に因る事大なるものなり。」
私はここから「中洲の皇都」を抽出し、神武がこの宮で軍備を再編成し、この宮が第二次東征の出発地となったことを直感したのである。
神武紀中の「中洲」の訓を「なかつくに」と改めた。竈門神社の由緒等に「中州」、同じ神武紀の後段に「葦原中国」と出てくるすべてが、表記は変わっても「ナカツクニ」という同一の地を指していることが明らかになったからである。
この知見もすこぶる重要で、記紀以外の古伝に当る際に貴重な鍵となる。
なお、竈門神社は、後に神功紀(神功摂政三年)に書かれた 「磐余に都つくる。是をば若桜宮と謂ふ。」
にも該当することが分かり、逆に「神日本磐余彦」の名の由来を知ったのである。(神武紀には別の由来が記されている。)
因みに、竈門神社の神紋は桜、 『続筑前風土記』 に宝満山は「岩群れ」の山と記されていることを付記しておく。
(中略)
三年積る間に、船檝を脩へて、兵食を蓄へて、将に一たび挙げて天下を平けむと欲す。
吉備の國高嶋宮ではなく、竈山の高千穂の宮に、雌伏三年。戊午(一一八年)春、神武は再び東征に趣いたようだ。
私の分析した、第二次東征の発向である。吉備の国の記述はすこぶる怪しいが、三年間にわたる再軍備は史実と考えられ、次に繋がる。
(後略)
■ 宝満山(標高829.6m)は、福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる山であり、別名を御笠山、
竈門山とも言う。
※ 鞍手郡誌(射手引神社社伝)によれば、神武天皇は一旦、 宝満山(すなわち 筑紫)に陸路
で凱旋する。
※ 神武天皇が、東征成就後に一旦陸路で宝満山(御母君玉依姫命の零位を祭る)に凱旋した
年は、「 邪馬臺国(邪馬台国)年表 」の西暦120年です。
※ 福永晋三先生の論文『 東西五月行の成立 』の18ページの鯷倭の興亡の中にある「神功天皇
(神功皇后) の征西」の以下の記述について、
2016年3月講演『初代神武天皇は田川で即位した』以降は、以下の内容に修正。
肥前松浦は、神功皇后に滅ぼされた勝門姫の一族が、西に移動した後の松浦であった。田中和典さんの再発見と新発見です。
田中さんの実家の糸島の宮地岳神社の祭神が勝門姫ということが判明したのです。
仲哀天皇記は魏志倭人伝のマツロ国が最初から宗像の地である事を証明していました。肥前松浦をマツロ国に比定した説はすべて間違いとの結果が出ました。
勝門姫は宗像の「 釣川 」のほとりで殺されたようです。私の説も肥前松浦ではなく、筑紫松浦の事件と修正します。
※ こちらが「神功天皇の征西」から続く「 氣長足姫尊の豊国北伐 」のページです。
※ 「楽浪郡~倭奴国まで12,000里 が、 帯方郡~邪馬台国まで12,000里に変わる」のページの中
にある『隋書』「俀国伝」に「東西五月行」の記述があります。
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