「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
※ 聖徳太子の正体 蘇我氏は「みやこ」にいた(平成29年6月3日 みやこ町歴史民俗博物館。4 日 嘉麻市NICO)の講演より
■ 聖徳太子の正体
● 用明天皇 紀に廐戸皇子が登場する。
元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后、是生四男、其一曰廐戸皇子更名
豐耳聰聖德、或名豐聰耳法大王、或云法主王、是皇子初居上宮、後移斑鳩、於豐御食炊屋姬
天皇世、位居東宮、總攝萬機、行天皇事、語見豐御食炊屋姬天皇紀、
その割注に聖徳太子と一致する名は無い。敏達五年三月条に豐御食炊屋姬尊(のちの推古天皇)を立后した
記事がある。そこに「是生二男五女、其一曰菟道貝鮹皇女更名、菟道磯津貝皇女也、是嫁於
東宮聖德」の記事があり、「東宮聖德」が最も聖徳太子に近い。古事記には「聖徳」の文字すらない。聖徳太子の
名は、記紀以外の文献に出る。
● 崇峻天皇 紀の即位前紀の物部守屋を蘇我馬子が攻めた時の記述に
蘇我勢が劣勢の最中、廐戸皇子は四天王像を作って誓う、
「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉爲に寺塔を起立てむ。」
と。蘇我馬子大臣も、又誓う、
「凡そ諸天王・大神王等、我を助け衞りて利益つこと獲しめたまはば、願はくは諸天と大神王との奉爲に、寺塔を
起立てて三寶を流通へむ。」と。
その直後に、木の上の守屋が射落とされ、守屋と子等が誅殺された。守屋の軍は敗れ、守屋の一族は或いは葦原に
逃げ隠れ、或いは逃亡して所在知れずになったと書紀は記す。
平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田一萬頃、
賜迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺。
乱後、四天王寺と法興寺が建立された。廐戸皇子の故事は偽作の可能性が強く、両寺は馬子が建てたらしい。
(*)ここでは、「廐戸皇子」としか記されていない。この時代は、豪族の力が強く天皇家の皇子達が臣下に
殺害されている。したがって、廐戸皇子に寺院を建てる財力・権力があったとは思えない。
● 崇峻天皇四年にあたる法興元年(西暦五九一年)、この時に二萬餘の豊国の軍隊が筑紫年号「法興」を発布した筑紫国の誰の
所へ出かけて行ったのか?その時に福岡県の東西(豊国と筑紫国)に年号を発布する帝が、二人並立している。
それは、 『隋書』俀國傳 にいう 阿毎多利思比孤、その人しかいない。
開皇二十年(六〇〇年)、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、
そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、
結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く
「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。
福岡県内に豊国王朝と筑紫国王朝の二つの王朝が存在して、兄弟の間柄だった。これを兄弟統治(兄弟統治)という。
継体天皇以降、先に豊国年号が出来ているから、本来、豊国が兄国で、筑紫国が弟国であった。
しかし、法興元年ができた瞬間に筑紫国が兄国に替わり、豊国が弟国に逆転してしまったらしい。
これが、上記の『隋書』俀國傳に記された阿毎多利思比孤の事である。通説では、聖徳太子が、随に送ったとか、国交した
とかとなっているが違います。「俀王」と書かれている。
法興以後の倭国地図に示すように筑紫国が、多利思比孤の時代に倭国本朝として遠賀の土地まで領域が広がり、兄国だった
豊国が倭国東朝 となり領域が狭くなった。
何故か?
推論でしかありません。豊国において物部守屋が、蘇我氏に敗れた。しかし、元々の物部氏の本拠地は遠賀湾の流域である。
物部氏の宗家が滅ぼされた結果、遠賀流域の物部氏が蘇我氏のいる豊国側から筑紫国側についたのではないか。その結果、
筑紫国側の勢力が大きくなった。天物部八十氏といわれた遠賀流域の一大勢力の領域が全部、筑紫国になった。
そこに『隋書』俀國傳に出てくる多利思比孤が現れ、遠賀の物部氏を味方に付けてあっという間に領土を広げた。これが、
現在の豊前、筑前である。多利思比孤の時代に形成された。
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を わかんどほり と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、
初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員が
ない。
後宮に女が、六~七百人いると見栄をはって言ったのでしょうかね。十分の一でも六~七十人とは、凄い。
次に、皇太子の名前が和歌彌多弗利とあるが、広辞苑の載っている。「わかんどほり」である。この当時の日本語で
皇太子のことである。
内官には十二等級ありとあるのが、これが日本史の教科書に載っている冠位十二階の事で、聖徳太子が出したと
言っているが、明らかに阿毎多利思比孤である。この隋書が示している。聖徳太子は創作されている。
大業三年の国書で「日出處天子」と名乗る阿毎多利思比孤盛仏法を重んじた王である。だから、筑紫国に観世音寺を
はじめ古代のお寺が大宰府周辺に沢山造られた。
中国の後代の史書 『宋史』日本國 には、
「次用明天皇、有ㇾ子曰二聖德太子一、年三歳、聞二十人語一、同時解ㇾ之、七歳悟二佛法于菩提寺一、
講二聖鬘經一、 天雨二曼陀羅華一。當二此土隋開皇中一、遣ㇾ使泛ㇾ海至二中國一、求二法華經一。次崇峻天皇。
次推古天皇、欽明天皇之女也。」
とある。
この平安時代に東大寺に伝わった『宋史』「日本國」の中の王年代記にはピッタリの「聖徳太子」という文字が出てくる。
但し、この聖徳太子のところにこの『宋史』を書いた元の脱脱という学者が、「我国の随の開皇中に当たる」と注を入れて
いる。随の開皇に使者を遣わしたのは、「日出ずる處の天子」の阿毎多利思比孤である。
したがって、平安時代の東大寺の書物の中で「日出ずる處の天子」と名乗つた阿毎多利思比孤という筑紫国の天皇を豊国の
用明天皇の子供が聖徳太子であり、推古天皇の摂政として、無理やり『日本書紀』の中で 矮小化されて貶められて書かれている。
残念ながら聖徳太子は、みやこ(豊国)に居なかった。本物は、筑紫の天皇である。これが、聖徳太子の正体です。
聖徳太子は、平安時代以降に貶められた阿毎多利思比孤の事である。だから同時代の『日本書紀 推古天皇紀』、『古事記
推古天皇記』に阿毎多利思比孤という名前は、一箇所も出てきません。
平安時代の天皇家が阿毎多利思比孤を隠した。阿毎多利思比孤の事が煙たくて仕方がなかった。それを矮小化して豊国の
聖徳太子(廐戸皇子)のところに無理やり強引に入れた。
● 推古天皇 紀の二九年の記事に
廿九年春二月己丑朔癸巳、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。
厩戸豐聰耳皇子が推古廿九年(六二一)に薨去したとある。ところが、法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘には
「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩。明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆。干食王后
仍以労疾、並著於床時、王后王子等及与諸臣深懐愁毒、共相発願。仰依三宝、当造釈像
尺寸王身。蒙此願力転病延寿安住世間。若是定業以背世者、往登浄土早昇妙果。二月廿一日
癸酉王后即世、翌日法皇登遐。」
とあり、上宮法皇が法興丗二年=推古卅年(六二二)に登遐(崩御)した。筑紫年号の法興は丗二年(六二二)に上宮法皇の
崩御によって終わる。この上宮法皇が筑紫君の阿毎多利思比孤の晩年の称号であろうことは疑いない。
つまり、『日本書紀』の「厩戸豐聰耳皇子」こそが造作された存在であり、後の「聖徳太子という虚像」の始まりと考えられる。