「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

「天満倭」考 ― 「やまと」の源流   福永晋三

はじめに

 歌謡が歴史事実を語る。万葉集・記紀歌謡を、万葉仮名や原表記に注意し、先入観に捕われずにあるがままに
解釈することから、わが国の古代史の実像を抽出しつつある。例えば、

 お佐嘉の 大室屋に 人多に 入り居りとも 人多に 来入り居りとも みつみつし 
来目の子らが 頭椎い 石椎いもち 撃ちてし止まむ

 (神武前紀戊午年冬十月)からは、肥前国風土記「佐嘉郡」の記事との深い関連を見出し、吉野ヶ里遺跡の前期
環濠集落に起きた、紀元一世紀頃の天神族対荒神族の興亡の跡を抽出した。また、

 大王は 神にし座せば 水鳥の 多集く水沼を 皇都と成しつ

 (万葉集四二六一)から、「水沼の皇都」を福岡県久留米市とその周辺に比定し直し、『後漢書』に謂う
「邪馬台国」が、四世紀後半に東鯷国(大型銅鐸圏、古代丹波王国)から挙兵した神功皇后により創始された
革命王朝であることを突き止めた。『三国志』に謂う「邪馬壱国」を併合したのだ。
 その六代、倭武天皇(倭王武)の行宮跡と思われる「常陸の皇都」(茨城県那珂郡桂村御前山)を飯岡由紀雄氏
が再発見し、『隋書』「俀国伝」に謂う「東西五月行」を領した「倭の五王」の統一王朝が再確認できた。
 今回は、同様の手法を駆使して、倭国の起源すなわち「倭(やまと)」の源流を追究する。

あきつしまやまと

 「やまと」の枕詞としては、「あきつしま」「しきしまの」「そらみつ」の三語がよく知られる。

 このうち、「あきつしま やまと」は、蜻嶋 八間跡能國者(二)、蜻嶋 倭之國者(三二五〇)、
秋津嶋 倭雄過而(三三三三)、 蜻嶋 山跡國乎(四二五四)、安吉豆之萬 夜万登能久尓乃(四四六五)
の五例に過ぎない。

 作歌年代の最古はおそらく二番で、他は巻十三以降となり、倭(やまと)の源流を探るには二番歌が最も有力な
手掛かりとなる。
 山跡には 群山あれど 取りよろふ 天の香具山 のぼり立ち 國見をすれば 國原は 
煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし國そ 蜻嶋 八間跡の國は
(二)

 この歌については、藤原定家の「長歌短歌之説」の信憑性を確認した時点で長歌とみなした。その場合、末尾が
「豊蜻嶋 八間跡能國者」の七・七の音数律であったものを故意にカットした疑いがあると述べた。

 そして、わたつみの豊旗雲に入日射し今夜の月夜さやに照りこそ(一五)を反歌に復した。これらの
仮定に立てば、ここのヤマトは豊国(豊前・豊後)を指し、同歌の天乃香具山は別府の鶴見岳に比定することになった
(拙論「万葉集の軌跡」参照、新・古代学第四集所収)。

 続いて、古事記の景行記の次の歌謡が、鶴見岳の由来を証明していたことに気づいた。

 ひさかたの 天の香山(かぐやま) 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くひ) 弱細(ひはほそ) 
手弱腕(たわやかひな)を 枕(ま)かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 
(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の襴(すそ)に 月立ちにけり

 キーワードは「鵠(くひ)」であった。意外なことに、対馬の伊奈久比神社社伝からほぐれた。
 「上古、八幡尊神を伊豆山に祭る時、大空に奇しき声あり、仰ぎ見れば白鶴稲穂を銜(くは)え来り、これを沢の辺に
落し、たちまち大歳神となる。