「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

  反 歌

 楽浪の 思賀の辛碕 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ(三〇)

 ささなみの 比良の大わだ よどむとも 昔の人に 会はむと思へや(三一)

 上の訓読は、「或は云ふ」の割注を採用し、なるべく原表記の漢字を活かしたものである。まず、全体の解釈を
示し、その後、語句解説をしながら詳細を検証する

【解釈】
 玉手次畝火の山の橿原の日知(神武天皇)の宮以来、出現された皇神の尽(ことごとく)が、(樛(つが)の木の)
いよいよ(日知の位を)継ぎ嗣ぎして、天の下をお治めになったところの、虚見つ倭(天満つ倭、古遠賀湾沿岸)を
さしおき、青丹よし平山を越えて、何方をお思いになったのだろうか、天離る東方ではあるけれど、石走る淡海の
国の、楽浪(ささなみ)の大津の宮に、天の下をお治めになったという、天皇(景行天皇)の皇神のお言葉の、大宮は
此処と聞くけれども、大殿は此処と言うけれども、霞立ち春日がかすんでいるからか、夏草が繁くなっているからか、
(実は涙でぼんやりとかすむ)百磯城の大宮処を見ると荒廃していることだ。

  反 歌(をさめ歌)

 楽浪の思賀の辛碕は、昔に変らずにあるけれど、ここを出たままの大宮人の船を再びここに待ちうけることは
できない。

 ささなみの比良の大わだは水が淀んで(大宮人を待って)いても、昔の人に会おうと思うことであろうか。
いやそんなことはない。

【新考】
 日本書紀の神功皇后摂政元年二月三月の記事、神功皇后軍が忍熊王を滅ぼし入水自殺に追い込んだ戦記を念頭に
置き、忍熊王の拠った百磯城の大宮処の跡を実際に訪れ、その荒廃を嘆き、併せて忍熊王の悲劇的な最期を傷んだ。
 そこは虚見つ倭の東方、豊国の淡海に展開された事変であった。武力革命による王朝交替のもたらす悲劇を詠んだ、
優れた叙事詩である。

【訓釈】 
 玉手次

 ― 玉たすきと訓む。「畝火」の「うね」を導き出す枕詞。語義未詳。

 畝火の山
 ― 本稿の「天満つ倭」の源流論から云えば、この山も古遠賀湾の周囲にある。記紀に明らかなように、天孫
 瓊瓊杵命の子孫の 神武(博多湾岸の分王家)は、天神饒速日尊の子孫の治める「天満つ倭」(古遠賀湾沿岸の
 本王家)を簒奪し、本王家を追い出した。
  記紀の神武東征記事は、「神武の天満倭侵略譚」とそれに起因する「天満倭本王家の瀬戸内東遷及び近畿侵略
 譚」との合成であろう。近畿に「東の天満倭」が成立、地名の移動が起きたと考えられる。

  神武は、本家を追い出した天満倭のあとに都して国号を「秋津洲倭」と改名した。都は「畝火の白檮原宮」
 (記)である。この直後に皇后選定の記事があり、宮がどこにあったかが暗示されている。
  后に選ばれたのは、伊須気余理比売(いすけよりひめ)。「倭の狭井(さい)川の上(ほとり)に住む美和の
 大物主神の御子」である。
  この美和(三輪)の神は、大国主神の共同統治者として出現している。「『吾をば倭の青垣の東の山の上に
 斎き奉れ』と答へ言りたまひき。こは御諸山の上に坐す神なり。」とある。