「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

 ここを多数の大型船が通過する時は、「蟻の行列」のように繋がって航行するしかない。だから、「蟻(の行列)の
ように船が往来する島門=遠賀の水門」と詠われたことは疑いようがない。
 古歌は歴史事実を的確に詠っている。
 (なお、「神功皇后紀を読む会」の上川敏美氏が「蟻通明神」を追究されている。)

 源流の「天満倭国」が「虚見倭国」に替えられた。改名者は誰か。神武か神功のどちらかであろう。先に見たように、
王朝交替の際に国名・地名が変わる。全世界の歴史に共通することだ。
 わが国の古代においても、記紀・風土記にその例を見出すことは容易である。
 例えば、神功皇后紀に、羽白熊鷲の拠った地を「層増岐野」と呼んだが、熊鷲を滅ぼし、神功が「我が心即ち安し」
と言ったから「安(野)」と曰ったとある。
 肥前国風土記では主に景行天皇が荒神を征伐しながら地名を付けてゆくし、常陸国風土記では倭武天皇が東夷を
巡守するなかで地名をつけてゆく。
 記紀も例外ではない。

 「天満倭」が「虚見倭」に替えられた背景を有する例が記紀に残されている。実は、大倭豊秋津島が生まれたときに、
すでに「亦の名は天御虚空(あまつみそら)豊秋津根別と謂ふ」と記されている。
 これは倭(やまと)に掛かる枕詞の変遷を一つにまとめたものと解される。天満・虚空見・秋津洲の集合体である。
 山幸彦説話では、「亦の名は天津日高(あまつひこ)日子穂穂手見命」と云いながら、兄海幸彦に本の鉤を返せと
言われ海辺に居たとき、塩椎神が「何ぞ虚空津日高(そらつひこ)の泣き患ひたまふ所由は」と問い掛けている。
 岩波文庫(倉野憲司校注)では虚空津日高にわざわざ「皇太子に相当する日の御子の尊称」とまで注している。
日本書紀では神功皇后紀の冒頭部、斎宮で、ある神が自らを「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神有り」と答えている。
 これは事代主の形容の変遷と見るべきだろう。ここでも天が虚に替えられていると考えられる。

 王朝交替によって国名・地名も替えられる。地名の移動と併せて、上代文学と古代史を探求する上で欠かせない
重要なテーマであろう。
 倭の源流の追究は、筆者の倭国易姓革命論を補強することになってきた。また同時に、大芝英雄の「古事記は豊前
王朝史」説、室伏志畔等の「神武は筑豊を東征した」とする説、昭和九年発行の『鞍手郡誌』が収める現地の詳細な
「神武東征伝承」、平松幸一の見出した『神代帝都考』等の全てが、「天満倭」に帰一し始めたと思われる。

「そらみつ」の語義

 「そらみつ」の原表記は「天満」であることが分かったが、それでは、「そらみつ」の言い換えが何を意味し、
「虚」「虚空」の表記が何を意味するのか。少しだけ観ておきたい。

 おおかたの国語辞典や古語辞典、記紀の解説書は当てに出来ない。先の岩波文庫の「虚空津日高」の注を見ても
分かるとおりだ。
 はたして、本当に「虚空」は尊称なのであろうか。数々の辞書を当たった中では、白川静の「字訓」の解説が最も
示唆に富んでいるようだ。

― 空(くう)は工(こう)声。工は左右にわたってゆるく彎曲するものをいう。たとえば虹のような形のものである。
〔説文〕七下に「竅(あな)なり」、また前条の竅字条に「空なり」と互訓し、空竅の意とする。〔詩、小雅、白駒〕
「彼の空谷に在り」、〔荀子、解蔽〕「空石の中に人あり」など、穴の深いものをいう字であるが、その義を拡大
して、天地の間をドームの形とみて天空という。