「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

  本稿が明らかにした「倭の源流」からすると美和(三輪・御諸)山は、田川郡香春町の香春岳三山を指す。
(御諸の諸には「は」の訓があり、すべて本来は「ミハ」である。ミモロは後代の新訓である。)
 その近くには犀川(現在の今川)も流れている。神武の宮は、倭の三輪山すなわち香春岳の直近にある。

  先に、王朝交替によって国名・地名も替えられる との
 テーゼを打ち出した。
  神武の東征は、同族であっても武力革命だから、やはり
 地名の多くが替えられた可能性がある。
  すると、三輪山(三山)の名が、雲根火・耳梨・高山に
 替えられた可能性がないか。
  万葉集一三番、中大兄三山歌を大和三山歌と疑わない
 が、これは(天満)倭三山歌の記憶があるからこそでは
 ないのか。
  香春一ノ岳が畝火山、二ノ岳が耳成山、三ノ岳が高山に
 当たるようだ。

  三輪山が倭三山の名に替えられた。神武記の皇后選定
 記事の後、神武が崩御し、庶兄当芸志美美命が三人の弟(伊須気余理比売の御子)を殺そうとする。その危機を
 知らせる歌が残されている。

昭和十年の香春岳

  狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす

  狭井河と畝火山が近い。狭井川と美和山も近い。それに先のすべての新知見を加えると、畝火山は三輪山
 (今日の香春岳一ノ岳)であると比定せざるを得ない。

  なお、付言するなら、天満倭本王家が近畿の大和に侵入した時、そこの三山に最初は三輪山の名を付けたと
 思われる。
  後に、神武系の一族が再び大和に侵入して、畝傍・耳成・香山に替えられ、三輪山はその東の一山に追われたと
 考えられる。
  また、高山から香山への表記の変更は、天乃香(具)山の表記への拡大、あるいは甘木の香山や豊国の天乃
 香具山へと山名が移動した跡を見ることができる。
  このように、地名の改名と地名の移動には、必ず歴史的背景があり、それらを追究しないと、記紀も万葉集も
 読み誤ったままとなろう。
  すべての再検証が必要である。

  下図は、「三つ鱗」紋である。豊後国発祥の三輪氏族の尾形氏、その三つ鱗にまつわる
 伝承も豊国の三輪山に淵源のあることが知れた。
  源平合戦に活躍した尾形三郎惟義の腋の下に三枚の鱗形のあざがあった。「蛇の子の
 末を継ぐべき験にやありけん。後に身に蛇の尾の形と鱗とのありければ、尾形の三郎と
 いう」と『源平盛衰記』にある。

  古事記の崇神天皇記にある三輪山伝説は「蛇婿入」説話でもある。このことと、尾形や
 緒方の姓は、深く三輪山伝承と関わっていた。
  ヲガタ(緒方・緒形・尾形・尾方)という姓は、万葉集一九の「綜麻形(へそがた)」の
 謂いなのである。「綜麻」は績みヲ(麻・緒・苧)であるから、最も短く言えばヲ(撚糸)である。
  つまり、「綜麻形」と「緒形」とは同義・同語源である。ヲガタ氏は「三角形の三輪山」より出た三輪一族の
 綜麻形氏であったのだ。
  したがって、豊後のヲガタ氏の三つ鱗の紋は、もともと「豊国の綜麻形の三輪山」を図案化したものであったと
 考えられる。