「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

 それに対して、饒速日尊の笠置山降臨(天神降臨)すなわち古遠賀湾岸制圧(遠賀川流域は弥生時代には樹枝状の
深い入り江であった。天照宮が磯光に鎮座するのも偶然ではない。後述する。)を天孫降臨の中心に据え直すと、
日中の文献と、遠賀川流域の古伝承と、弥生人骨の分布と、立岩式石包丁に関する考古学の報告とのすべてが、重なり
始めるのである。

 天神降臨の地は、ほぼ笠置山でよかろう。古事記の《「此地は韓国に向ひ笠紗の御前にま来通りて、
朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。かれ此地ぞいと吉き地」と詔りたまひて、底つ岩根に
宮柱太しり、高天の原に氷椽しりてましましき。
》の記事が、実は、饒速日尊の笠置山頂での詔(傍線部は、
天照国照の称号と呼応すると考えている)であるなら、ここが倭奴国発祥の宮であり、新・高天原なのである。

 そして、立岩式石包丁の流通に見られるように、豊(豊前・豊後)・筑(筑前・筑後)・火(肥前・肥後)と領土が
拡がっていったのは、ごく当然のなりゆきと思われる。

 筆者はここに、旧唐書にいう「古の倭奴国」、万葉集に詠う「そらみつ倭(やまと)」の源流を、笠置山とその周辺
(福岡県鞍手郡を中心とする遠賀川流域、いわゆる筑豊地方)に比定する。

(筑豊地方は、天神の領域であり、降臨後の「豊日別」に属する。豊日別神社の分布から見ると、今日の豊前豊後よりも
大きな豊国であったようだ。
 一方、天孫の領域は「白日別」であり、筑紫国は現在の筑前よりも小国であった。後の筑後はもとは火国の領域で
あったようだ。なお、すでに室伏志畔は「筑豊王朝」の語を用いている。)

「そらみつ」の語源

 そらみつ倭が饒速日尊の降臨地であることを、日本書紀も記している。

 三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿巡幸す。因りて腋上の嗛間丘(ほほまのをか)に登りて、
国の状を廻らし望みて曰く、「妍(あな)にや、国を獲つること。内木綿の真迮(まさ)き国と雖も、
猶ほ蜻蛉(あきづ)の臀阽(となめ)の如きかな。」と。是に由りて、始めて秋津洲の号有り。
 昔、伊奘諾尊、此の国を目(なづ)けて曰く、「日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の
秀真国(ほつまくに)。」と。
 復た大己貴(おほなむち)大神、目けて曰く、「玉牆(たまがき)の内つ国。」と。饒速日命、
天磐船に乗りて、太虚(おほぞら)を翔行(かけめぐ)り、この郷(くに)を睨(み)て天降るに及至りて、
故、因りて目けて曰く、「虚空(そら)見つ日本国(やまとのくに)。」と。
(神武天皇三十一年四月)

 筆者は、すでに「倭国易姓革命論」(『越境としての古代』所収)を提示しているが、神武紀には「天神降臨前後の
倭国の詳細な国号の変遷」が記録されている。

秀真国

・・・ 伊奘諾尊が名づけた。浦安の国は風浪の少ない古遠賀湾を想起させ、細戈の千足る国は筑紫戈の出土
   状況と一致する。
    秀真国は後に倭建命が詠んだ「倭は 国の秀真(まほろば)…」歌の概念と繋がる。(『秀真伝』との関係は
   今は言及できない。)

玉牆の内つ国

・・・ 大己貴大神が名づけた。倭建命の右の歌の続き「たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」(畳み
   重なったようにくっついて、国の周囲をめぐっている青々とした垣のような山の内に籠っている倭は美しい)
   の表現によく合っている。
    同じく、古遠賀湾岸の国を想起させる。

虚見つ倭国

・・・ 葦原の中つ国(出雲王朝か)を倒し、玉牆の内つ国に天神降臨して倭奴国を創始した饒速日命が名づけた。
   これが日中の文献に見られる倭(やまと)の源流である。立岩式石包丁の流通図に重なる国であろう。