「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

秋津島倭国

・・・ 神武天皇が名づけた。後述するが、神武の東征の結果、大倭豊秋津島または豊秋津島倭国、万葉集に
   詠まれた「あきつしまやまと」と呼称が変化した。
    このヤマトは今山石斧の流通図に見られるように、「そらみつやまと」より拡大した版図のほうに
   合致するのではないかと思われる。神武東征の発進地を糸島とする説(古田武彦)とも一致する。

 それでは、倭の源流を形容する「そらみつ」とは一体どういう意味なのか。

 実は、万葉集二九番「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」に重大な鍵がある。先に、同歌の
虚見 倭乎置を挙げて あるが、これは或云の割注にある表記であり、本文は天尓満 倭乎置而と表記してある。
 通例、「天(そら)にみつ 大和を置きて」と書き下される。原表記をそのまま用いるなら「天に満つ 倭を
置きて」となる。「そらにみつ」の五音の枕詞はここ一箇所だけであり、「そらみつ」の四音に直せば「『天満』倭」
というこれも唯一の表記である。
 これは周知の「天満宮」に共通する。祭神も周知の「天神」である。祭神とされる菅原道真公は平安時代に合祀
されたのだから、天満宮の本来の祭神=天神は天神本紀の「饒速日尊」を指すと考えてよい。
 先にやや詳しく述べた天神降臨記事を凝視すると、そこには、天の忍穂耳の命から始まり、天の菩比(あまのほひ)
の神、天津国玉の神、天若日子と続き、最後に、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかり
くしみたまにぎはやひのみこと)
が三十二将・天物部(あまのもののべ)等二十五部族を率いて豊葦原の水穂の国に降臨した
のであった。
 「天~」という名の神々が数多連続している。天物部等二十五部族については、『白鳥伝説』によっても、次の
各地に住まいして、その遺称地が幾つかある。前半にそれを記し、後半に筆者が現地で拾った例を挙げる。

 二田物部(筑前 鞍手郡・二田郷)、馬見物部(筑前 嘉穂郡・馬見郷)、嶋戸物部(筑前 遠賀郡・島門)、
赤間物部(筑前 宗像郡・赤間)、筑紫物部聞物部(豊前 企救郡)、筑紫贄田物部(筑前 鞍手郡・新分郷)。
 十市物部(鞍手郡若宮町・都地)、芹田物部(鞍手郡若宮町・芹田)、弦田物部(鞍手郡宮田町・鶴田)、
狭竹物部(鞍手郡小竹町)。

 これら天の物部一族の居住地を一本に繋ぐ線が存在する。古遠賀湾の海岸線である。
 次の図(高見大地氏作成)は、「古遠賀湾の縄文時代と弥生時代の海岸線」(九州大学 山崎光夫の原図を大幅に
縮小し、新たに大正期の地名の書込みを施した)を示したものである。
 山崎光夫は昭和三十八年にボーリング調査に基いてこの図を描いた。当時は『白鳥伝説』も出版されていなかったし、
『旧事本紀』も偽書扱いされていた頃である。
 したがって、それらと全く関係なく純粋に地質学から作られた図が見事に天神降臨説話と一致するのである。天神
降臨は、ここでも歴史事実であることが知られる。

 天の物部一族は古遠賀湾沿岸と内海の島々に住んだ。古遠賀湾は、山崎光夫の図のさらに奥、現在の遠賀川・西川・
彦山川・犬鳴川などの上流まで樹枝状に海が入っていたようだ。
 饒速日尊は、犬鳴川上流(当時は入り江)にある笠置山上に宮を建てた。これらの様子が中国側に的確かつ簡潔に
記されている。
 魏略に云ふ、倭は帯方東南の大海の中に在り、山島に依りて国を為す。(漢書地理志・顔師古注)