「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
「天満倭」考―「やまと」の源流
ここにも「豊国の三輪山」が証明されていたのである。(なお、万葉集一九の「綜麻形」は「みはやま」と
訓じるべきであることを証明した。)
橿原の日知の宮ゆ
― 神武の宮。歌では初代とされている。神武紀によれば、畝傍山東南橿原地とあるから、現在の香春町高野の
あたりか。
阿礼座しし神の尽
― 通説は、「生れましし」と訓じる。神武の次は早くも兄弟が殺しあっている。そこで語弊を避けて、出現した
と解釈する。
樛の木の弥継ぎ嗣ぎに
― 「樛の木の」は「つぎつぎ」にかかる枕詞。「継ぎ嗣ぎに」は表記に注意すると、神武朝が不安定な王権で
あることが分かる。崇神天皇記や垂仁天皇記も反逆の記事に埋まる。崇神天皇記には大物主大神を祭って疫病を
鎮めた説話があり、三輪山伝説までが語られている。
また、魏志倭人伝の「其の国、本亦男子を以って王と為し、住まること七八十年。倭国乱れ、相攻伐すること
歴年乃ち一女子を立てて王と為す。」の記事とあわせても、これらは、この歌の中に含まれる。
神武や卑弥呼の即位は「継」に当たり、女王の都も「倭」にあった。
虚見つ倭を置き
― 「そらみつやまと」は既出。天神降臨以来、歴代の帝都のあった天満倭(古遠賀湾)をさしおいて、の意。
三輪山の近辺(秋津洲倭国)から遷都をすることになったが、神武以前の旧都に戻ろうとしなかったようである。
歌の前半で、天満倭国内の遷宮、神武の遷都、秋津洲倭国内の遷宮が詠われ、次の遷都の候補地を考えている
ことを指すのではなかろうか。
「おく」は「後に残しおく」、「捨ておく」、「除いて」という意味にも用いられるようになった。
青丹よし平山越えて
― 「青丹よし」は「なら」の枕詞。「平山」も「ならやま」と訓じる。天満倭から香春に遷都したと仮定
すると、当時の通過点に該当するところに、室伏志畔が田川市の「奈良」を見出し、平らな低い丘陵のある
ことを挙げている。
何方を思ほしけめか
― 通説は「いかさまに」と訓じるが、「いづかたを」と訓じた。秋津洲倭国からの遷都の方角を思った
のではなかろうか。
天離る夷には有れど
― 「天離る」は「ひな」の枕詞。東夷の「夷」が用いられているので、「東方の鄙」を指すと考えられる。
前の句「何方」と呼応する。
石走る淡海の国の
― 「石走る」は「あふみ」「垂水」「たき」にかかる枕詞。「あふみ」の場合は、石の上を溢れて走る溢水
(あふみ)の意とする説がある。
「淡海の国」については、一五三番歌に「鯨魚取り淡海の海を」の例があり、他の「いさなとり(鯨取り)」
はすべて「海」にかかる枕詞であるから、三輪山より東の河川水の流れ込む海の国を想定するのが自然である。
ここは、豊前の海を指す。
ただし、古遠賀湾も自然環境から言えば、淡海である。このことが反歌に関係する。いずれにしろ、題詞の
「近江」は万葉集編者の間違いか偽作である。この歌の淡海は、近畿の淡水の琵琶湖を指さない。
したがって、この段階で柿本人麻呂が、壬申の乱の悲劇を詠っていないことが分かる。
楽浪の大津の宮に
― 仲哀記や神功紀に、忍熊王を滅ぼした後に「酒楽(さかくら)の歌」が詠われている。「…少名御神の
…豊寿き 寿き廻し 献り来し御酒ぞ あさずをせ ささ」とある。
「神楽声」をササと訓じ、それを略して「神楽浪」と書き、さらに略して「楽浪」と書いた(澤潟久孝)。
恐ろしい因縁の表記である。
楽浪の大津の宮は現在の豊津町のあたりが所在地と推定される。