「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


「天満倭」考―「やまと」の源流

 「そら」が「反(そ)り」を意味するように、空もまた工のような反りのある空間をいう。蒼空をまた蒼穹(そう
きゅう)
といい、弓(きゅう)もまたそりのあるものの形である。

 虚(きょ)は虍(こ)声。下部は丘の古い形で墳丘。〔説文〕八上に「大丘なり」とし、「崑崙丘、これを崑崙の
虚といふ」と〔山海経〕の崑崙虚の説を引く。
 崑崙の遺構と伝えるものによって考えると、それはジグラット形式の神殿であったらしく、地の西極にあって魂の
赴くところとされた。
 のちそのような聖所のあとを虚・墟という。虚址の意よりして現実に存しないもの、虚偽・虚構の意となり、
空虚・虚無の意となる。
 国語の「そら」が「そらごと」となるのと同じ過程である。枕詞に用いる「そらみつ」「そらにみつ」は「虚見津
大和」〔万一〕、「虚空見つ日本の國」〔神武紀三十一年〕、「天尓満倭」〔万二九〕のように、「見つ」「満つ」
といずれも甲類音を用い、大和・山につづくが、その語義はなお明らかでない。―

 上を参考にすると、「そらみつ」に尊称が残されているなら、「天神の聖所のあとを見る」の意であろうし、
もしも蔑称であるなら、「現実に存在しない虚址を見る」の意に取れよう。
 両者とも、万葉集に見られる「山跡」の表記が緊密に繋がる。「虚空見つ」は、毀誉褒貶の半ばする微妙な枕詞で
ある。
 沢史生は『鬼の日本史』で、広島方言の「そらみつ」が「何もない」という意だと紹介している。(飯岡由紀雄氏
から教示していただいた。)
 筆者の故郷でもある筑豊地方には、人の失敗を嘲るのに「そら見ろ」の慣用句があり、「そら」が「それは」に
置き換わらない表現が残されている。
 毀誉褒貶のいずれにしろ、「天満」が「虚空見」に替えられた事実だけが残されているとしか、今は言い様がない。

 ただし、一つだけ述べておきたい推理がある。それは、「(彎曲せる)遠賀湾の見える倭」の意である。
 『鞍手郡誌』の「神武東征伝承」の中に、「日子山は天神天忍穂耳尊のお降りになった国見山であり、神武天皇も
先ずこの山頂に於いて『国覓』を遊ばした。
 同山の水精石の由来にも神武五年七月云々の文字がある。」という記述が見られる。英彦山頂上からは遠賀川流域が
一望でき、神武の時代に古遠賀湾が一望できたことは想像に難くない。
 「古遠賀湾の見える倭国」の意であるなら、神武東征の歴史も事実であるし、神武が「天満倭」を「虚空見倭」に
改名した可能性も高い。
 『字訓』の解説は実に含蓄に富む。

あふみの荒れたる都

 倭の源流を探求するのに、貴重この上ない「天満倭」の表記を残していた万葉集二九番歌は、歌自体が王朝交替の
悲劇を詠った叙事詩である。
 この歌の新解釈を試みたい。それはそのまま倭国史の事実を抽出することになるからである。

  近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌

 玉手次 畝火の山の 橿原の 日知の宮ゆ 阿礼座しし 神の尽 樛の木の 弥継ぎ嗣ぎに
天の下 知らしめしける 虚見つ 倭を置き 青丹よし 平山越えて 何方を 思ほしけめか
天離る 夷には有れど 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ
天皇の 神の御言の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 霞立ち
春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる 百磯城の 大宮処 見れば淋しも
(二九)