「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

 魏晋南北朝の長い動乱の後に、隋唐の王朝が現れた。北には異民族が侵入し、鮮卑族が漢族の南朝を倒し、鮮卑族の
天下となった。
 従来の漢族はこの異民族との交流から、漢語に四声のあることを再認識し、この四声を韻文にどのように活かすかを
考え始めた。

 四声とは、平声・上声・去声・入声を謂う。平声は平らなトーンを指し、上声は上がるトーンを、去声は急激に下がる
トーンを指すようだ。特徴的なのは入声である。
 現代の中国語には失われたトーンであるが、日本の漢字音に今もその名残を留めている。
 いわゆるフ・ク・ツ・キ・チで終わるトーンを指す。唐代には、-p・-k・-tで終わる音節の語があった。十シフ
フク・吉キツなどがその例である。これらの四声のうち平声を平ヒョウ(平らなトーン、○で示す)、上・去・入声を
ソク(傾くトーン、●で示す)と分類し、平仄の字(語)をどのように配置すれば美しく響くかを考え抜いたのが
「平仄法」である。
 この平仄法の有無こそが近体詩と古体詩の違いである。

 平仄法の要は、絶句でも律詩でも各句の二・四・六字目にある。五言詩には六字目はない。先に挙げた七言詩で説明
する。
 第一句の二字目が平で始まるか仄で始まるかによって、おおよその平仄の配置が決まる。鉄則として、「二四不同」、
「二六対」がある。
 二字目と四字目の平仄は必ず違う平仄にし、二字目と六字目は必ず同じ平仄にしなければならない。次に守らなければ
ならない約束として、「孤平・孤仄を忌む」、「下三連を忌む」がある。
 二・四・六字目の箇所に一人ぼっちの平・一人ぼっちの仄を置いてはならない。特に、「孤平を忌む」。また、各句の
下三字は平の三連、仄の三連を置いてはならない。

 次に、絶句・律詩の約束事も重なる。五言・七言とも、偶数句末に必ず押韻(同じ母音の語を配する)しなければ
ならない。
 七言は原則として第一句末も押韻する。例に挙げた詩では◎印の語がそうである。しかも平声である。

 また、律詩の場合、一・二句を首聯、三・四句を頷聯、五・六句を頸聯、七・八句を尾聯とし、中央の頷聯と頸聯は
必ず対句(文法的にも内容の上でも事柄が対となる句)を配さなければならない。
 対句は平仄の上でも対になる(平仄が入れ替わる)句である。

 さらに、首聯・頷聯・頸聯・尾聯は起承転結の構成にならなければならない。その上、中央の二組に対句を配置する
ことから、四組の奇数句と偶数句が対になり(「登高」は「全対(全て対句)」の詩としても名高い)、首聯と頷聯、
頸聯と尾聯が対になり、最終的には前半四句が「景」を歌い、後半四句が「情」を歌い、「景」と「情」が対となって
律詩は完結する。
 対×対×対=八句ということで、律詩は八句で構成される。構成上、八句は必然の句数でもあった。

 絶句は、律詩の後半四句を絶ち切った句であり、「景」だけを歌い、言外に「余情」を漂わせる詩形となる。したがって、
絶句には本来、起承転結の構成は存在しないし、対句の配置の要もない。

 唐詩は以上のとおり、途轍もなく音韻と構成に執着した詩形である。李白は酒に酔ってもこの平仄法を守ったからこそ
「詩仙」と称されたのであり、律詩に長けた杜甫は「詩聖」と称されたのである。

 李白・杜甫は中国文学史上の盛唐の人である。李賢は初唐の人であり、同時代の詩人には、王勃・劉廷芝・盧照鄰・
駱賓王らがいる。
 唐代の詩人の多くは、科挙(文官任用試験)を受けて文官になった。科挙の際に、詩や賦を課せられたことでも知られる。
「推敲」の故事にその一端が窺われる。中唐の詩人賈島が「僧推月下門」の句を作ったが、「推す」を「敲く」に改めた
方がよいかどうかに苦慮しつつ、思わず、韓愈(吏部権京兆の役にあった)の行列にぶつかる。
 韓愈の前に引き出され、韓愈に問うたところ「敲く」に決したという故事である。この故事から、詩や文章を作るに
あたって、その字句や表現をよく練ったり練り直したりすることを「推敲」というようになった。