「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』
ずっと後世まで漢字のふりがな(特に音読字の)はだいたい二系統に分かれる。呉音と漢音である。漢音は時代から
いえば、日本が隋・唐の政府と交通し、外交使節や留学生を派遣した結果、当時の首都長安および洛陽において直接に
学んだ中国語の発音、その日本化した変形である。
この漢音を正規の字音と定める命令が延暦十二年(七九三)に発せられ、唐の貞元九年にあたる。ただしその学習と
伝来はおそらくこの年より早くから開始されたに違いない。
これに対しその以前から日本で行われていた発音を「呉音」という。つまり漢音は八世紀末ごろの中国音を表わし、
呉音は七世紀以前から伝わっていた。
儒学の経書は無論のこと、歴史書や詩文集も漢音でよむのが正則となり、明経ミョウギョウ博士と文章モンジョウ
博士がこれを伝えて後世に及んだ。仏教は奈良朝以前から広まっていたため、経典の読誦ドクジュにはあいかわらず
呉音が用いられた。
隋以前の五―六世紀に日本は主として南朝の政府と貿易していたことおよび朝鮮半島の南部との関係が密接であった
ことの結果として、呉音には今の南京を中心とする地域の中国語の影響が強い。
呉音という名称自体が、北方(洛陽を中心とする)地域の中国人からのよびかたであった。
しかし呉音と漢音の違いは地域(方言)の相違よりは時代の差異によるところが大きい。また日本では仏教の勢力が
久しく強固であったため、漢音は完全に呉音に取って代わることができず、一つ一つの漢字についていえば、漢音で
よまれる字が多いけれども、呉音でよむのが習慣になってしまった字もある。
しかし呉音と漢音の違いは地域(方言)の相違よりは時代の差異によるところが大きい。また日本では仏教の勢力が
久しく強固であったため、漢音は完全に呉音に取って代わることができず、一つ一つの漢字についていえば、漢音で
よまれる字が多いけれども、呉音でよむのが習慣になってしまった字もある。
たとえば情や城のジョウ(ジャウ)は呉音で、漢音セイはほとんど用いられない。また熟語では漢呉音を併用したり
混用したりする場合はたいそう多い。
しかし呉音と漢音の違いは地域(方言)の相違よりは時代の差異によるところが大きい。また日本では仏教の勢力が
久しく強固であったため、漢音は完全に呉音に取って代わることができず、一つ一つの漢字についていえば、漢音で
よまれる字が多いけれども、呉音でよむのが習慣になってしまった字もある。
たとえば情や城のジョウ(ジャウ)は呉音で、漢音セイはほとんど用いられない。また熟語では漢呉音を併用したり
混用したりする場合はたいそう多い。
四 慣用音について
或る字の日本音が正規の漢呉音に合わないのを慣用音という(この名は大正以後できたらしい)。広韻などの反切が
代表する中国中古音は、一定の原則により漢音または呉音にカナで表記できるが、その原則に合わない不規則なよみが
ある。(中略)
(六)由来の不明な音。打は(呉)チョウ(チャウ)・(漢)テイが正しいが、ふつうダとよむ。「広韻」「集韻」
などにこれにあたる音が見えない(ただし北宋時代十一世紀にはdaと発音されたらしい)。
唐音の早い例であると思われるが、これまでの字典にならい慣用音に入れる。また佳(漢)カイ・釵(漢)サイなどは、
カ・サともよむ。
これらを慣用音とする前例によってこの辞典も(慣)としたけれども、八、九世紀のころ、すでにカ・サにあたる発音
が中国でも存した形跡はある。
唐音に時代の違いによるいくつもの層があるごとく、漢音(のみならず呉音)でも新古二つの層があったと考えるべき
であろう。
引用がずいぶん長くなったが、これほどに一字の音価を推定することは容易なことではない。まず、三世紀の「邪馬臺」、
特に「臺」字の音価を探るには、呉音からあたるほかはないのだが、魏晋南北朝の韻書は今伝わらない。「平水韻」からは
やはりダイの音価しか得られない。
しかし、わが国には「万葉仮名」が存在し、そこに「呉音のドーナツ化現象」と思われる音仮名が多数残されている。
たとえば「乃」、ひらがな「の」・カタカナ「ノ」の元となった万葉仮名である。平水韻からは、(呉)ナイ(漢)ダイ
(上声十賄)が得られる。
私はこの「乃」から、「呉音の古層」にnoとnaiの母音交替を推測したのである。
また、「能」も万葉仮名では「ノ」の音仮名としてよく用いられるが、平水韻からは(呉)ノウ(漢)ドウ(下平十蒸)
と(漢)ダイ(去声十一隊)が見える。
douとdaiの母音交替が漢音にも推測される。常用漢字にして形声文字の「態」の音符が「能」であることからもこの類推
は容易であろう。
万葉仮名「乃」「能」に-oと-aiの母音交替が推測されるとき、「臺」にもあるいは「ト」とよむ「呉音の古層」があった
のではないか。
これが私の問であった。