「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

 『翰苑』倭國条。
 憑山負海 鎭馬臺以建都

 『范曄後漢書』李賢注  
 其大倭王居邪馬臺國.案今名邪摩惟,音之訛也.

 『翰苑』の「馬臺」は四六駢儷文の制限から「邪」字が敢えて省かれているので「邪馬臺」と同じと考えてよい。
三書に「邪馬臺」の表記が共通する。

 『隋書』の場合、「魏志所謂」としてあるから、唐代においては、「謝承後漢書」・「三国志斐松之注=魏志(倭人
伝)」・「隋書俀國傳」・「翰苑倭國条」・「范曄後漢書李賢注」に一貫して「邪馬臺」の表記があったことを意味し、
南宋本『三国志』に見られる「邪馬壹國」表記は未だ出現していなかったことを意味する。
 三度言う、「邪馬壹國こそなかった」のである。

『翰苑』雍公叡註の証明

 『翰苑』雍公叡註は、唐太和年間(八二七~八三五)の成立とされる。太和五年(八三一)以前の成立とする説も
ある。
 雍公叡は、『翰苑』高麗条において三種の「後漢書」を引用している。一に「魏牧魏後漢書」、二に「范曄後漢書」、
三に「後漢書」。「魏牧魏後漢書」は今も未詳である。二の「范曄後漢書」は現存する。三の無名の「後漢書」は誰の
撰か。これこそ失われた「謝承後漢書」であった。

 なぜなら、雍公叡は『翰苑』倭国条の第一句「憑山負海鎭馬臺以建都」の注において、「魏志」の前に「無名の
『後漢書』」を引いているからである。
 魏志即ち三国志の前に成立した後漢書は「謝承後漢書」以外にあり得ないからである。この観点に立てば、我々は
「天下の孤本『翰苑』東夷伝」中にたとえ部分とはいえ、『謝承後漢書』を目の当たりにしているのである。ほとんど
奇跡を目の当たりにしているのである。

 雍公叡が「謝承の『後漢書』」を『後漢書』として引用し、范曄の言わば「新・後漢書」を『范曄後漢書』の名で、
区別して引用していることがいよいよ明らかになってきた。
 このことを認識すれば、『翰苑』雍公叡註の倭国条は深い示唆に富む。

倭國

憑山負海鎭馬臺以建都

① 後漢書曰,倭在朝東南大海中,依山島居,凡百餘國.自武帝滅朝鮮,使譯通漢於者州餘國, 稱王,
 其大倭王治邦臺.樂浪郡儌,去其國万二千里,甚地大較在會稽東,与朱雀・儋耳相近,

② 魏志曰,倭人在帯方東南.炙問侫地,絶在海中,洲島之山.或絶或連,周旋可五千餘里.四面倶海.
 自營州東南,經新羅,至其國也.

分軄命官統女王而列部

③ 魏略曰,從帶方至倭,循海岸水行,暦韓國,到拘耶韓國,七十餘里,始度一海,千餘里至對馬國.
 其大官曰卑拘,副曰卑奴.無良田,南北巿糴.南渡海,至一支國,置官至對同,方可 三百里.又渡海,
 千餘里至末盧國,人善捕魚,能浮沒水取之.東南五百里,至伊都國,戶万餘, 置曰爾支,副曰洩溪觚・
 柄渠觚.其國王皆統屬王女也.

卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方諧衆望

④ 後漢書曰,安帝永初元年,有倭面上國王師升至.桓,遷之間,倭國大乱,更相攻伐,歴年無 主.
 有一女子名曰卑弥呼,死更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑弥呼宗女臺與,年十三爲 王,國中遂定.
 其國官有伊支馬,次曰弥馬升,次曰弥馬獲,次曰奴佳鞮之也.