「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

 思えば、藤堂明保氏は、契沖の『和字正濫鈔』巻五の末尾に「『愛宕』が『あたご』と『おたぎ』と通う」とある
ことから、愛にオの古層のよみがあるのではないかとされ、「邪馬臺」が「ヤマト」とよめるのではないかとされた。

 「耶馬台」とは、古く日本語の地名「ヤマト」にあてられた漢字である。だが「台」を「卜」と読ませるのはまことに
奇妙である。もっともこれ一例だけならば問題は小さい。
 ところが、古い地名には愛宕オタギのように「愛」を「オ」にあてた例があり、また万葉がなの中では「乃」を「ノ」
にあてているのは周知のとおりである。
 「台・愛・乃」は、すべて〈切韻〉の咍(カイ)韻の字で、六朝時代にはəiであった。このəを日本語のオ段(乙類)に
あてたわけである。

 推古朝の金石遺文や古い万葉がなの用例をみると、「里(ロ) 已(ヨ) 止(ト) 己(コ)」のような奇妙なあて方が
みえる。(そのうち己(コ)は、後の呉音読みにもはいりこんで、自己(ジコ)という読み方に現われる)
 これらの字はすべて〈切韻〉の之韻の字であるが、同じく之韻に属する「碁」は、囲碁(ゴ)の「ゴ」として日本語に
はいりこみ、また「期」は末期(マツゴ)の「ゴ」として、仏典の呉音読みにも現れる。

 また「止」という古いあて方がもとになって、片仮名の「卜」という字が作られたのは周知のとおりである。〈切韻〉
の之韻は、六側時代にはiəi、唐代には縮まってiとなってしまったが、上古の漢語ではiəgという形で、母音əを含んでいた。
おそらく三国時代から六朝の初めにかけては、なおiəg→iəi→iと変わるその中間の段階iəiであったろう。
 当時の日本人は、このəをオ段(乙類)に聞きとるのが例であった。(前記の「台・愛・乃」をオ段に訳したのと同じ
ケースである)
 そこで、「里(ロ) 已(ヨ) 己(コ) 期(ゴ) 碁(ゴ) 止(ト)」のような、一風変わった訳音のしかたが生じた
わけである。

 このような、古めかしい発音は、おそらく大陸の文物が大挙して日本に招来される以前に、徐々に我が国に伝わって
いたものとみえる。
 だが〝コトバは生きもの〟であるから、『これは古い、これは新しい』と、机の上でふりわけて実生活に押しつける
わけにはいかない。

 だから奈良朝に伝わった呉音式発音の中に、いつのまにか、こうした一段と古い層が吸収されて、混然と一体をなして
しまった。
 後の呉音では「里(リ)」と読み「ロ」とは読まないが、「己(コ)・期(ゴ)」はむしろ呉音でも普通であって、かえって
「キ・ギ」とは読まない。(漢音なら「己(キ)・期(キ)」)
 このようにして、呉音自体がかなり不純なものとなったのである。

 もう一つの問題は、 呉音といわゆる「和音」(倭音)との関係である。「和音」とは、 平安朝の人たちが、当時すでに
日本語になりきってしまった、
 漢語の発音をさして呼んだコトバである。(「毒(ドク) 門(モン) 天井(テンジャウ) 桔梗(キキャウ)」などは、
平安朝の人たちからみれぱ日本化した漢語、すでに我々に同化された借用語であったわけだ)

 いわゆる「和音」の発音は、おおむね奈良朝の呉音読みである。もちろん多少は、それ以前の古い漢語の層も含まれて
いるかも
しれぬが、それにしても、呉音がすでに上古音の層をも吸収していること、前記のとおりだとすれば、この点でも
和音と呉音とを区別することは、全く意味をなさない。

 発音の上から論ずるかぎりでは、いわゆる「和音」とは、呉音の中の一部分にすぎないのである。(傍線は福永による)

 以上も、長文の引用だが、漢語音韻学の立場から他の例証を備えたうえで「邪馬台国」は「ヤマト国」と読むことの
できる可能性を示唆している。

 これについては、『「邪馬台国」徹底論争・巻第一』の中で、古田氏が「三世紀の音と確定できるか」との問いを
発したところ、藤堂氏は「中国語からははっきりいえない。
 日本の邪馬台国研究からそう考えた。」と答えた、となっている。藤堂氏の漢字音研究を全面的に信用するのも危険
だが、邪馬壱論興隆期の頃の古田氏の記述を全面的に信用するのもまたたいそう危うい。

 漢語音韻研究はまだ新しい学問(言語学自体が新しい)である。私は、「魏志倭人伝再読」において、数々の新提言を
行って来たが、漢字音については発表の裏側で常に深く悩み続けてきた。藤堂氏の「中国語からははっきりいえない」
立場も重々承知している。
 なぜなら、我が国の古代史を探究する上で必要不可欠の「前漢から六朝時代までの音韻を記録した書物(韻書)」が
現存していないからである。