「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

「邪馬臺」の音価

 『謝承後漢書』・『三国志』斐松之註・『范曄後漢書』李賢註・『隋書』俀國傳・『翰苑』雍公叡註、これら全ての
現存する史料を精査し直した結果が「邪馬壹國こそなかった」である。
 魏志倭人伝の本文批判の結果はやはり、「十二世紀の邪馬壹國表記は三~九世紀の邪馬臺國表記の誤り(もしくは
故意の改訂)」だった。しかも、唐詩の平仄法も「倭國」=「邪馬臺國」を証明していた。
 「倭」の訓がもともと「やまと」である伝統を尊重すれば、「邪馬臺」もやはり「ヤマト」と読むべきであった。

 これに対し、古田仮説は「国学にいう、ヤマトと読める邪馬臺」を排し、「十二世紀の邪馬壹國表記」を「三世紀三国志
の原文だ」とする幻視を強調し、五世紀の『范曄後漢書』を執拗に貶め、漢語音韻学の藤堂明保をやり込め、挙句の果て
には「倭」に「ちくし」の訓があるとの妄言まで並べ立てた。
 これらと並行して、記紀のトリックにいとも簡単に陥り、神武を三世紀に東のヤマトに追い遣り、ありもしない近畿
天皇家分王朝を創出し、その上で実体の乏しい九州王朝論を主張し続けた。
 これらに反論するには、改めて「邪馬臺」の音価を確認しなくてはなるまい。

 「邪馬臺」を「ヤマト」と読めるか否か。これを確認するには実に巨大な壁が立ち塞がる。漢語音韻論の壁である。
ひとまず、「角川新字源」の付録「漢字音について」から、漢字音の歴史を抄録する。(以下のローマ字は国際音声字母
ではなく、ヘボン式を用いる。また、傍線は福永が施した。)

  一 中国での漢字音の歴史

 中国語の歴史は、スウェーデンの学者カールグレン氏に従えば、大約四期に分かれる。「上古漢語」、「中古漢語」、
「近古漢語」、「老官話」。
 上古とは、およそ紀元前六世紀およびそれ以後、中古とは紀元後六世紀末の言語をさす。近古は十一世紀、老官話は
十四世紀の言語である。
 カールグレン氏自身は上古と中古の字音研究に全力をそそいだので、あとの二つの時期の研究は他の学者たちに
ゆだねられた。

 カールグレン氏の音韻史研究の出発点は、中古すなわち隋の仁寿元年(六〇一)に著わされた「切韻」が代表する音の
体系
である。
しかし、かれが資料として利用できたのは、北宋の初め(一〇〇七)に重編された「広韻」五巻であった。切韻と広韻の
内容にわずかな違いがあるけれど、実質的には同一の音体系をもつから、後者をもって前者に代用できる。

 「切韻」以来、韻分けの字書(韻書)もその他の字書も、おおむね「反切」を用いて字音を書き分ける。反切とは、
一字(つまり一つづり)の音を二字の組み合わせによって表わす方法である。
 たとえば、広韻に「開 苦哀切、看 苦寒切、渇 苦曷切」とあるのは、開がkai、看がkan、渇がkatと発音された
ことを示す。苦哀の二字で開の一字の音を表わすのだが、反切の上字、苦がk-の子音を、下字、哀が-aiの母音を表わす。
 だから、反切上字が同じならば、つづりの初めの子音は同じである。ただし上字はk-の子音で始まるものはどの字を
用いてもよい。
 このような、つづりの初めの子音を「声母」という。下字が表わすのは-aiのように母音(一つまたは二つ以上)の場合
と、-an,-atのように母音のあとに子音がつく場合もある。それらをすべて「韻母」とよぶ。

 韻母は反切下字によって区別されるが、同じ韻母を共有する字をまとめて一つの韻とする「広韻」の韻の総数は
二百六
で、四声の違いを無視すれば六十一類
 ただし一つの韻の中に二種類以上の韻母を含む場合がある。音節が母音で終わるもののほかに、平・上・去声では
-ng,-n,-m、入声では-k,-t,-pで終わるものがある。

 上古音の推定は、中古音を基礎としてなされたおもな資料は「詩経」の押韻字と形声字の系列である。形声字とその
音符および音符を同じくする形声字は同類音であったはずで、この二つを用いて、中古の韻のグループを編成がえして、
異なった体系が得られる。
 清の段玉裁の「六書音均表」では大別して十七部とし、かれの「説文解字注」は一字ずつにどの部に属したかを注記
する。清の朱駿声の「説文解字通訓定声」は一部多くて十八部に分かつが、最近の学者は入声独立の部(十一部)を設け、
二十九部または三十一部とする。カールグレン氏は三十五類とする。
 中古では四声(平・上・去・入)があったが、上古の声調の分類は明らかでない。上古の声母もいろいろ問題があって、
中古と異なった類別を想定しなければならないが、細部を定めるにはまだ多くの困難があって、いまでも完全な解決は
なされていない。