「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』
また、③の『魏略』に、「對馬國」「一支國」の表記があり、南宋紹煕本『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」中の
「對海國」「一大國」等、紹煕本がいかに誤植の多い版本であるかが知られるのである。
「邪馬台国はなかった」とする古田仮説は、『翰苑』の隅から隅までをちっとも正しく読んでいない、誤謬に誤謬を
重ねた代物だと言っても過言ではない。
「邪馬壹國こそなかった」のである。
『范曄後漢書』李賢注の証明
其大倭王居邪馬臺國.案今名邪摩惟,音之訛也.
上の『范曄後漢書』李賢注にも「邪馬壹國こそなかった」ことの一証明が実はなされていた。これを全く別の視点から
明かそう。
李賢とその部下は唐代の人である。この唐代は中国文学の華、「唐詩」の最盛期でもあった。唐代はそれまでの長い
古体詩の世界から、いわゆる近体詩を確立した画期的な時代であった。絶句とか律詩とかの全く新しいスタイルを生み
出したのである。
唐詩の双璧と称される李白と杜甫の詩を一篇ずつ掲げる。
七言絶句平起式
早發白帝城 早に白帝城を発す 李白
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朝辭白帝彩雲間 朝に辞す 白帝彩雲の間
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千里江陵一日還 千里の江陵 一日にして還る
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兩岸猿声啼不住 両岸の猿声 啼き住まざるに
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輕舟已過萬重山 軽舟 已に過ぐ 万重の山
七言律詩仄起式
登高 高きに登る 杜甫
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風急天高猿嘯哀 風急に 天高くして 猿嘯 哀し
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渚清沙白鳥飛廻 渚清く 沙白くして 鳥飛 廻る
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無邊落木蕭蕭下 無辺の落木 蕭蕭として下り
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不盡長江滾滾來 不尽の長江 滾滾として来たる
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萬里悲秋常作客 万里 悲秋 常に客と作り
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百年多病獨登臺 百年 多病 独り台に登る
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艱難苦恨繁霜鬢 艱難 苦だ恨む 繁霜の鬢
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潦倒新停濁酒杯 潦倒 新たに停む 濁酒の杯