「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

 「中国語からははっきりいえない」立場を明らかにした藤堂氏は、三世紀の漢字音を推測するにあたって、「万葉
仮名」に残された「特殊な和音」に注目されている。

 私の管見でもこれは客観的に有用な方法論と目される。中国に韻書のない分、古事記・万葉集は最たる「呉音の宝庫」
であり、失われた三世紀の漢字音を残している可能性が大きいからである。私が傍線を付した部分の藤堂氏の意見は私の
最も了とするところである。
 この方法論を延長した先に、私の「伊都(いつ)国」論や「東鯷(とうし)国」論等が生じた。

 ところが、人の意見を聞き入れない古田武彦氏はこれを一蹴し、間違いだらけのもしくは詭弁ばかりに満ちた「九州
王朝論」を主張し続ける羽目に陥った。
 事実、魏志倭人伝の「伊都國」を「イトコク」と平気で漢音でよみ、通説と同じく糸島に比定した。

 古事記には多くの「伊都」が現れるが、全て呉音で「イツ」とよむことが明らかである。崇神紀にも「伊都比古」と
いう名の倭国王と思われる人物が現れる。
 この「都」から古いカタカナの「ア」・「ナ」までが生じ、どちらも「つ」とよむ。少し冷静に考えれば、呉音と漢音
の区別もつかない者に、三世紀の「邪馬臺」がもとよりよめるわけはないのである。

おわりに

 視点を変えて、再三再四、「邪馬壹國こそなかった」を書いた。
 『翰苑』雍公叡註を軸に据え、唐代の周知の史料事実を再点検し、唐代の中国人の認識に立って、雍公叡註の書写の
頃(九世紀初め)まで、日中のいずれにも「邪馬壹國」表記のないことを立証した。
 思えば、『翰苑』は邪馬台国近畿説を完全に否定する実証力を備えていた。次に今回も含めて、唐代まで魏志倭人伝に
すら「邪馬壹國」表記のなかったことを実証する力をも秘めていた。
 

 「邪馬台国はなかった」とする古田仮説は、魏志倭人伝の本文批判(テキストクリティーク)において、もとより
杜撰甚だしいものだったと結論せざるを得ない。
「杜撰ヅサン」とは、あやまり多く、いいかげんなことという意味だが、語源がおもしろい。宋代の詩人杜黙の作る詩が
音律(平仄法)に合わないことが多いところから「杜黙の撰した詩」=「でたらめ」ということで、「杜撰」の語が
できたとする(野客叢書)。
 「邪馬台国はなかった」も、畢竟、杜撰な仮説であった。換言すれば、「邪馬壹國博多湾岸説」が杜撰の極みだった
のである。

 この「邪馬壹國」の呪縛から脱却しないかぎり、「正しい真実の倭国史」は金輪際見えて来ない。苟も通説の古代史に
対峙せんと志す者は、古田仮説から一刻も早く解脱すべきだ。
  (『古代史最前線』二二号所収の拙論に、二〇一四年八月一五日、大幅に加筆補正した。)