「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

  二 韻書の変遷

 韻書の起源は晉(三世紀)にあるが、そののち南北朝までに
作られた書物は今すべて伝わらない
 さきに中古音の資料としてあげた「切韻」はそれらの集大成で
あり、「広韻」はさらにそれを増補してできた。
 韻書の本来の用途は詩や賦などの韻文を作るときの参考書で
あった。
 この目的には、切韻などは韻の区別が細かすぎ、一韻の収める
字が少なくて不便であったから、唐代から「通用」あるいは
「同用」することが定められた。
 文官登用試験に詩や賦の制作を課したため、政府において
許容規定を設けたのである。

 よって二つあるいは二つ以上の韻を一つの韻として使う結果と
なり、宋刊本「広韻」の目録に注記されている。
 この許容規定である「通用」は変遷を経て、南宋末一二五三年
(壬子)に金の平陽県で刊行された「韻略」は通用できる韻を
合併して百七韻とし、この韻書は刊行地名をとって「平水韻」と
よばれた。

 元の時代(十四世紀)には、さらに一韻減少して百六韻となっ
た。この分けかたを、やはり平水韻と称する。平声では三十韻に
なる。
 唐代以来の律詩や絶句すなわち近体詩はほとんどこの百六韻と
実質的には同じ押韻をしたのであって、今日まで作詩家に用いら
れている。
 平水韻は広韻の目録内で隣り合う韻を合併しただけだから、
当時の実際の発音を直接反映していない。

 しかも一東と二冬(上平)のごとく唐末すでに同じ音になっていたはずのものが依然として区別され、要するにわが国の
歴史的かなづかいに似た性質を有する。
 古詩(古体詩)はこれに従う必要がなく自由に押韻され、一定の基準は久しく無かった。

 この辞典ではおのおのの親字の下にその漢音(または呉音)とともに所属の平水韻の韻名をしるした。百六韻全部の
名称とその二百六韻との併合の関係は、表Bに書き入れてある。

  三 日本の漢字音(呉音と漢音と唐音)

 日本人が漢字とその音を学び始めたのはきわめて古い。しかもその発音の実際は平安朝にはいって考案された
カナによって知られるのみであって、中国語に比べ単純な日本語の音体系に合うように作られたカナは中国音の
細かい区別を完全に表わしてはいない。
 多数の漢籍と仏典の古写本につけられた訓点が存し、重要な資料となっている。