「邪馬臺(やまと)國=鷹羽國」説
    (福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)


『邪馬壹國こそなかった -九州王朝論再構築にむけて-』

文身點面猶稱太伯之苗

  魏略曰, 女王之南,又有狗奴國,女男子為王,其官曰拘右智卑狗,不屬女王也.自帶方至女國万二千
 餘里.其俗男子皆點而面文.聞其舊語,自謂太伯之後,昔夏后少康之子封於會稽, 斷髮文身以避蛟龍之吾.
 今倭人亦文身以厭水害.

 ④の後漢書の「卑弥呼の死以後の記事」は、「范曄後漢書」にはなく、却って「三国志」に分散して書かれてある
ことを突き止めた。そこから、この後漢書は「三国志」以前の「謝承後漢書」である可能性が高いことを指摘した。

 謝承の没年は杳として分からないが、孫権の没年(二五二)の頃が、「卑弥呼,死更立男王,國中不服,更相誅殺
の時期であり、且つ二六六年の「臺與の西晋への遣使」は記されていないから、あるいは「謝承後漢書」は二五〇年代の
成立を推測させる。

 「倭面上國王師升」の表記が「范曄後漢書」にないことから、富永長三氏は、中国史書の東夷伝全てを渉猟され、
遂に『南斉書』百済国の文章に「寧朔将軍面中王」の呼称を見出し、倭奴国の都はある時期韓半島にあり、それが
万葉集中の「遠の朝廷」の一つであると看破された。
 表記に注意すると、①の後漢書も「謝承後漢書」の可能性が高い。「范曄後漢書」と「謝承後漢書」の倭国冒頭部を
並べてみよう。
 上が「謝承後漢書」、下が「范曄後漢書」である。

倭在東南大海中,依山島居, 凡百餘國.自武帝滅朝鮮,使譯通漢於者州餘國,   稱  

倭在東南大海中,依山嶋為居,凡百餘國.自武帝滅朝鮮,使驛通於漢者三十許國,國皆稱  

王,     其大倭王治邦臺.  樂浪郡儌,去其國万二千里,  

王,世世傳統.其大倭王居邪馬臺國.樂浪郡徼,去其國萬二千里,去其西北界拘邪韓國七千  

   甚地大較在會稽東,   与朱雀・儋耳相近.  

餘里.其地大較在會稽東冶之東,與朱崖・儋耳相近.  

 「范曄後漢書」には確実に三国志の記述を加えた部分が読み取られる。だが、大部分の骨格は「謝承後漢書」の記述を
継承していることが明らかだ。
 加筆以外の「謝承後漢書」と「范曄後漢書」の主な違いを並べる。

朝(鮮)  

使譯  

餘里州(卅)餘國  

治邦臺  

 →  韓  

 →  使驛  

 →  三十許國  

 →  居邪馬臺國  

 「朝鮮」と「韓」は各後漢書の成立時の違いによるものであろう。「使譯」は三国志も継承している。「余り
(以上)」と「許り(未満)」は概念が逆である。
 三国志は「三十國」と記す。「治邦臺」は今のところ不明であるが(竹内理三は「治邪馬臺」の誤写とする)、
「臺」字は共通し、やはり「壹」字が現れない。

 以上のように、『翰苑』雍公叡註には、「鎭馬臺」の本文に対し、成立の古い「謝承後漢書」の「治邦臺」を引き、
「范曄後漢書」を引いていないことが知られる。
 ところが、次に「魏志」が引いてあり、「邪馬臺國」の部分こそ引かれていないものの、当時の魏志に「邪馬壹國」
表記がなかったことを、『隋書』俀國傳と合わさって証明していよう。