「邪馬臺國=鷹羽國」説
(福永晋三先生の倭歌が解き明かす古代史)
「天満倭」考―「やまと」の源流
天神降臨=そらみつ倭国の草創
中国の史書にはわが国の古代の王国が記録されている。その名を「倭国」と云う。
建武中元二年、倭奴国、奉賀朝貢す。使人自ら大夫を称す。倭国の南界を極むるや、
光武賜ふに印綬を以ってす(後漢書倭伝)。(根崎勇夫氏の訓読に拠る。)
紀元五十七年の記録である。このとき、後漢の光武帝から下賜された印綬こそが、福岡県志賀島から出土した
とされる「漢委奴国王」の金印であることは間違いない。
倭奴国と委奴国は表記の違いはあるが、同一の王国であり、また倭国でもある。後の『旧唐書』東夷伝にも、
「倭国は古の倭奴国なり。」とあり、『漢書』地理志に「楽浪海中倭人有り、分かれて百余国を
為す、歳時を以って来りて献見すと云ふ。」ともあるから、倭国は前漢代から始まったようである。
したがって、金印の証明するもの、それは倭国が現在の福岡県に興ったという事実である。また、「倭」
(後に和と書き換えられた)の訓が「やまと」であるかぎり、最も古い「やまとの国」も福岡県内に興った
ことになる。
前章に述べた「天神降臨」が歴史事実であることは、人類学の分野で検証
されたと思われる。
右の図がそれを示す。これは、土井ヶ浜人類学ミュージアムの松下孝幸氏が、
弥生時代の人骨を調査された結果を示す分布図である。
身長と顔つきに顕著な違いがあるとのことである。福岡県を中心とする
背の高い人骨が渡来型弥生人、長崎県を中心とする背の低い人骨が在来型
弥生人となっている。
つまり、渡来型弥生人の北からの侵入が歴史的事実であることを物語り、
記紀にいう「天孫降臨」がそれに当たると考えざるを得ない。
次に、天孫降臨(天神降臨)はその名のごとく、「迩迩藝の命(ににぎの
みこと)」一代の事業でなく、数代にわたる大事業であったことが挙げられる。
各説話をまとめよう。
① 「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」のお言葉で、豊葦原水穂の国
(豊国)は、我が御子「天の忍穂耳の命(あまのおしほみみのみこと)」の
お治めになる国と仰せられて、天降(あまくだ)しなさった。(記)
② 水穂の国がひどくさわいでいると、忍穂耳の命がお還りになり、
ちはやぶる荒ぶる国つ神どもを言趣(ことむ)けするため、葦原の中つ国
(出雲か)へ「天の菩比(あまのほひ)の神」が派遣される。が、大国主の神に媚びつきて三年経っても復奏
しなかった。(記)
③ そこで、天津国玉の神の子「天若日子(あまのわかひこ)」が派遣される。が、大国主の娘の下照姫(したてる
ひめ)を妻とし、またその国を得ようとして、八年経っても復奏しなかった。邪心を抱いたため、ついに天国
からの還矢に中って絶命する。(記)
④ 次に派遣されたのが、「伊都の尾羽張(いつのおははり)の神」の子「建御雷(たけみかづち)の男の神」である。
やっと、葦原の中つ国を平定した。国譲りである。(記)
⑤ 葦原の中つ国を平定したので、再び豊葦原の水穂の国に「天の忍穂耳の命」を天降しなさろうとする。(記)
天の忍穂耳の命は英彦山(日子山)に降臨、「瓊瓊杵命(ににぎのみこと)」の建国の偉業に助力された。
(英彦山神宮由緒、英彦山神宮の上宮は福岡県田川郡添田町英彦山の頂上に鎮座する)